2014年4月12日土曜日

恩寵の生涯

一月の長野集会の月報に紹介されていた好地由太郎の自叙伝の題名である。必読の書とあったのでアマゾンで調べたらあったので購入した。勿論古本であるが新品同様である。初版は大正6年出版され、昭和4年に8版を重ねて絶版になっていたのを1996年にこの本を読んで感動した宮本義治さんが現代文に直して出版され、更に2007年にオフィスワイワイ蜜書房さんが再出版された経緯がる。それを今手にしている。

1865年千葉県金田村に生まれた。1882年に17歳で奉公先の女主人に対して性的罪を犯し、それを隠蔽するため殺害・放火して逮捕され、死刑を宣告されるが、未成年のために無期懲役刑になる。
鍛冶橋監獄で、安川亨に聖書を送られる。冤罪で投獄されていた青年伝道者の祈りに心を動かされて、入信した。牢獄内で迫害を受けるが、留岡幸助が教戒師になり、留岡と妻の夏子に大きな影響を受けた。
その後、模範囚になって1904年に出獄して諸方で伝道活動をして、1905年4月に留岡幸助の司式で結婚して巣鴨に住んでいたが、7月より開館した浅草の駒形伝道館に住み込んで伝道をした。
会館以来連夜説教会を開催して多くの人が救われた。公園内で路傍伝道説教をしたが、9月に由地が留守の間に、伝道館で婦人会の最中に、暴徒に襲われ家財道具を焼かれた。好地の妻は暴徒に追われて逃げ場を失い、隅田川大川端まで逃げて逃げ場を失い投身自殺をしようとしたが、聖書を見ておもい留まり、暴徒から逃れることができた。
後に好地のこの時逮捕された暴徒の一人に聖書を差し入れた。後に、多くの重罪人を回心に導いた。
(ウィキペディアより一部抜粋)
という経歴の持ち主である。監房の頭をしている時に一人の青年が入ってきた。「娑婆で何をしたのか」と尋ねたら「何もしていない」と、そして「良いことをしたためにここに来たのです」と言うから悪の限りを尽くして入獄しているのに「そんなことがあるか」と言ってみんなに袋叩きにされながら青年は「私はここで殺されても天国にまいりますが、ここにおられる方々は神を信じいない罪人です。どうかこの方々の罪を赦してください」と祈った。「ステパノのような祈りに心の中に一つの不思議な光のひらめきを感じた」と叙述している。これが入信のきっかけになった。しかし袋叩きにあっても泰然自若としている青年の姿を見て、この不思議な力の源は聖書にあるのではないかと読み始めます。勿論求道ではなく、脱獄や悪の手立てとしてそれを用いようとして人に読んでもらい、また自分も文字を習いながら読んでいくが逆のことが書いてあるので投げ打ってしまいます。その後も死の恐れ中にあって模範囚になったりあるいは脱獄したりと大変な囚人であったようだ。そんな中で一つの夢を見る。「若者よ、この本を食べてみよ。これは永遠の生命を与える神の真のことばです。この本をソナタにやるから必ず読みなさい。決して私の言葉を忘れるな」とそれから熱心に聖書を読むようになった。勿論、聖書は一読して理解できるほどやさしくない。

彼は酒タバコもやめ、人の嫌がること、辛く思うことは、自分から進んで引き受け、良いことはよい、悪いことは悪いとはっきり言うので反感を買うようになり、尚且つ伝道をするので迫害を受けるようになる。監房内で伝道と証をされ、独房は聖書研究の場となり、そして特赦で出所することができました。出所して主に刑務所伝道に励んでいたようです。彼は悪であれ、善であれ、言葉と行動において徹底している。信従という言葉があるがぴったりである。それ故か彼の周りに不思議な出来事が起きてくる。医者がさじを投げた病人が癒されたり、やくざが回心したり、どうにもならなかった問題が解決したり、その一つ一つにキリストの福音が伝わっている。ある意味でキリストの愛を命がけで伝えている姿を見る。だから結果が出る。

本の序にクリスチャン典獄として有名な有馬四郎助と家庭学校の創立者留岡幸助が書いている。この本は湯河原の大倉喜八郎の別荘で口述筆記をされて出版されたとか三名の名前は本間俊平の本の中にも出てくる。彼もどこでも受け入れてくれない青年や刑務所を出所した人たちを受け入れて大理石を掘っていた。同じように刑務所を含め多くのところで講演している。戦争中は福音から外れた言動があったようだが彼は多くの人たちに影響を与えた。戦前のキリスト者、特に明治のキリスト者は聖書の言葉を実践し、命がけで福音を伝え、社会を変えている姿を見る。読んでいて色々問いかけてくるが根底が違うなと思ってしまった。爪の垢を煎じて飲みたいなぁ