2014年6月11日水曜日

「放蕩」する神

軽井沢でのシニア・キャンプに参加して、その売店にあった一冊の本が上記の題の題名である。へそ曲がりだから変わった題名だとすぐ飛びついてしまう。それに薄くて読みやすそうだった所為もある。内容はルカの福音書15章の「放蕩息子のたとえ」を題材にして書かれていた。

この箇所は放蕩する弟息子を中心に語られているように見えるから「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるところである。言葉としてもよく使われて、以前に二人の息子も「俺は放蕩息子だ」と言ってはばからなかった。言われて「放蕩息子は必ず帰って来るんだぜ」と言うと沈黙する。どうも神から離れていることを知っていても帰るつもりはないらしい。こういう使い方もある。メッセ―ジなどでもどちらかというと弟の方にピントを合わせがちで、ともするとパターン化してしまう。わかりやすいが時として本質を見間違うことがある。福音も然りである。

著者はここを「失われた二人の息子」と呼ぶほうが妥当だと書いている。兄は弟と対極にあるように見えるが父の思いを理解できないという点では同じである。

今年の初めにある信者の方に「クリスチャンは上から目線で物を見ている」と言われてハッとしたことがあった。イエス様のことを語りながら兄目線で語られることがある。どこか自分の中に形が整えれば良しをするところがあり、兄の内面を問わずに外見を見て良しとする。弟のような場合も内面を問わず外見を見て裁くきらいがある。そこに自らを義とするパリサイ的発想があることを思う。神の義を求めても神の愛が欠落しているのを見る。信じながらもこのような体たらくである。このような者に主はいのちを注いでくださった。以前息子に「人は、この人はダメですと簡単に切り捨てることができても親は切り捨てることができない。」と、そんなことを言ったことがあった。神がそうだから親もそうなのである。私たちを切り捨てられない神、イエス様のわざを思うと払った犠牲の大きさとそれにも答えない人々の反応、著者が放蕩(浪費)する神と言われたことがよくわかる。だからこそ兄も弟も我が姿であるを知り、見習うべきは父の姿であることを知る。パターン化した福音ではなく、複眼的な福音に生きるべきである。