2014年6月25日水曜日

聖書を読みながら

聖書通読にチャレンジして今ロマ書を読み始めた。この調子だと7月くらいには読み終えるのかなとそうしたらもう一度新約をと思っている。時には字面を追うような日も無きにしも非ずでひたすら前へ前へのみである。だからと言って多くの時間を使っているわけではない。読むのに努力する個所もあり、滅多にないが思わず読み進み時間を忘れることもある。

パウロ書簡を読み始めて素朴な疑問がわいてきた。パウロは何でイエス様のことをあぁも細かく書き表すことができたのだろうかと思ったりいている。弟子たちが書くのならまだわかるがパウロは復活したイエス様にしか会っていない。ピリピ書2章などはその最たるものである。聖霊と言われると次の言葉が出てこないがそれだけではないような気がしている。

もうひとつ私たちには主権がないがすべてのものを選ぶという意味では主権を持っている。大きな意味でイエス様の救いを受けるか受けないかは人の側に選択権がある。神の側にはない。この選びで救いを取ったとすると特権にならないだろうかと思う。「受ける」とならば問題はないが「取る」ということは自分の主権を行使したようなものそこにおごりが生じるような気がする。その典型が福音書に出てくる律法学者やパリサイ人である。そして現代の律法学者パリサイ人に最も近い人たちはと言えば…である。「知識はを高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」のことばが響く、

micah: 6: 8
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。
matt:10:42
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら

小さい者を探すのは難しいが探して水一杯をやれるように努力したい。頑張ってできるものではないが。