2014年6月27日金曜日

見えるということ



john: 9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
9章は生まれつき目が見えなかった人がイエス様によって見えるようになった出来事で費やしている。この盲人の癒しが安息日であったが故である。多分、癒されて日が安息日でなかったら問題にはならなかったであろう。
ここでもイエス様特有の皮肉がある。言葉で指摘するのではなく現実の出来事をとして指摘されると誰にでも問題の本質がわかってくる。
若いときに聞いた話であるが何か雑談をしていた時にか誰かが急に祈り始めたそんな状況だったと思う。そのとき一人の婦人は慌てて頭に手を置いたと、そんなことを聞いたことがある。
1cor:11:10
ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
私たちの集まりは、このみことばを実践しているからよくわかる。もう一つ同じ若いときに、祈り会に教会に集っていた姉妹が来られた。一般の教会では当たり前のことなので彼女も祈った。同じグループなのでどきまぎしたことを思い出す。それは、
1cor:14:34
教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。
この言葉を実践して、姉妹は公では祈りさえしない。以前いた集会は祈り会を兄弟と姉妹に分かれて祈っている。今いるところは小さな集会なので祈り会なるものはないができれば以前いた集会と同じようなやり方をするであろう。形が出来上がるとそれを壊すのは至難の業である。しかし、パウロの言うように肉を食べるか食べないかは本質ではなく、信仰を持ってやっていることを批判すべきではないと思っている。今は被り物がなかったらそのまま祈りに合わせればいいし、姉妹が祈ったら同じように姉妹の祈りに合わせればいいと思っている。しかしそのようなことはあれから遭遇していないので現実に起きたらどきまぎするかもしれない。

何かを守るというときそれは形の上での出来事がほとんどのような気がする。そしてそれは楽なことである。イエス様はその逆の行き方をした。形はどうであっても本質を大切にした。盲人にとって目が見えるということは何物にも代え難いものである。それはただ見えるというだけではない。彼は罪びととして群れに参加できなかった。これは村八分のようなも耐え難いものであろう。イエス様はこの二つの問題を解決してくださった。宗教指導ががたがた言うのを承知で、そして彼らが彼らの伝統を守るということで盲人の幸を何一つ考えていないことが暴露された。それは彼らの真実の姿が「罪が残る」ということばに表されている。それは、
john 3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ここにあるとどまるということと同じなのである。まぁ言うなればヒルのように罪が食いついて離れていないということだ。たかがヒル、しかしこれが命取りになる。恐ろしいことである。

形にとらわれていると本質が見えないことがある。「見える。わかっている」というときにその先はない。日々、謙遜と感謝をもって歩めるようにと願い祈っている。

聖句はhttp://www.tuins.ac.jp/~takao/biblesearch_s.htmlから引用