2014年7月10日木曜日

赦されているということ

matt 18:21-23
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。

福音書を見るとイエス様と弟子たちの対比をいくつか見ることができる。というより神の本質と人の本質の違い、あるいは肉のもたらす結果は神と異質なものであることを教えられる。ここでのペテロの質問は「赦しはどこまですか」であり、イエス様は「父よ彼らをお赦しください」とご自分を十字架につけた人たちの「執り成し」をされている。これは完全な赦しである。「神の公平」さとは避けられない隔たりがある。罪はあらゆるものを差別し、それを当然のように受けとめている。確かに18章冒頭の「誰が一番偉いのでしょうか」も然りである。彼らはそこから一歩も出ることはなかった。

イエス様はペテロの質問に答えて尚且つ補足するように一つのたとえを話された。1万タラントの借金を赦された者が100デナリ貸した者を赦さない出来事である。1タラントは6000デナリ、1デナリは一日分の労賃、100デナリは3か月ちょっとの労賃、返せない額ではない。しかし1万タラントを考えるとゼロの羅列で天文学的数字になる。「どうかご猶予ください」と言っているが返せる額ではない。100デナリ赦せないということは1万タラント赦されたことが理解できていないということではないだろうか。100デナリと1万タラントは比較にならないと同じように物理的な赦しと罪の赦しはイコールではない。しかしこのたとえと同じようにみることができるのではないだろうか。

高橋先生が「伝道とは」のところで「…人類に働きかける神の御業は、御子なるキリストの十字架と復活において、その絶頂に達しました。私共の全存在がこれにどう応答するかという信仰的表白こそ、福音を世に伝える私共の責任であります。信仰とは、迫り来る神の恵みに圧倒され、罪と死からの解放を与えられた者が、全存在を挙げて神の真実に応えようとする信頼と服従にほかなりません。それは、感謝と賛美として御前に捧げられるばかりでなく、キリストの死に合わせられた者としての古き自己の死を産み出すことにもなりましょう。つまり伝道とは、キリストの生命の伝達であるばかりでなく、伝道者自身の生命も併せて注ぎ出されるのであります。…この伝道活動を通して生命の喜びが生み出されるばかりでなく、悪の支配に抗して戦い抜く決意と力が溢れ出ることも、尊い神の恵みの発現であります。」と書いておられる。

100デナリ赦せない者の姿は自分とダブるが罪の赦しを受けるだけであればこうなるのだろう。しかし、それにいかに応えようかと思えば罪の赦しの重みの大きさを確認させられ、他者を赦すという赦しは些細なことであることがわかる。「赦す」ということが福音の理解度のバロメーターになっている。そんな気がする。