2014年7月3日木曜日

静かな暴力

世の中のきな臭い動きを見ているとよく思い出すのがこの聖書のことばである。

わたしはあなたを引き回し、あなたのあごにをかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。ezek:38: 4

エゼキエルは37章に「枯骨の復活」の後にこのようなことを書いている。

新聞は取っていないので読むのは週に一二回くらいしかない。それもサーッとである。ニュースはTVのみ、ネットがあるかしかし断片的である。そんな中で政治の動きを見ていると危惧の一語に尽きる。安倍さんは勿論のことだがそれに反対する声が聞こえてこないのも怖い。鳴りを潜めているのかマスコミが意図して流さないのか定かでないが。政治のニュースと言えばどこかの県議が意味不明の釈明会見を繰り返し流している。全く戯画的である。

安倍さんの話を聞いていると言葉の軽さを感じる。というより言葉の遊びをやっているようで何ひとつこちらに響いてこない。あり得ないことをさもあったらと想定して図まで書いて説明している姿を見て、厚顔なのか無知なのかと見識を疑ってしまった。はたまた国民を馬鹿にしているのか。小泉さんもそうだったがどこか短絡的、勿論すべてとは言わないが。しかしこれが日本の為政者の姿かと思うと暗然とする。ブッシュのようにあからさまもなんだが。

先の戦争の轍を踏もうとしているように感じてしようがない。そしてその道を歩み始めようとしている。国民のためと、確かに国民は苦しみを強いられる。国民のためではなくて誰かのために動いている姿が見え隠れする。この間TVでトヨタの豊田章男社長がゲスト出演していた。その中で国内生産300万台確保を述べていた。それは雇用と技術の維持発展に欠かせないと、グローバル企業がどんどん海外にシフトをしているのにと思いつつ、だからこそ今日のトヨタの発展があるのかと変なところで感心した。国は国民のためよりもグローバル企業のために奉仕していく、企業もそれを求めている。そのようなところに個人はない。自分の主権と力を行使しているようであっても実は顎に鉤をひっかけられて振り回されているに過ぎないそんな姿を思い浮かべる。安氏の「たとえそうでなくても」の本の中に日本の軍隊が骸骨の行進に見えたと書いてあったが人々からスポットライトを浴びているようなものでも中身は実にお粗末過ぎるということもある。社会の底辺の出来事なら大したことではないが国のトップが事を起こしたらどうなるかはすでに立証済みである。

国民のためにと言いながら国民に大いなる負担を苦しみを担わせようとするならそれは暴力でなくて何であろう。国民の一人というより社会の底辺で生きる者が感じるものはあながち間違っていないと思っているが。