2014年7月21日月曜日

聞くということ

義姉がケアハウスに入っているので月一ちょっとの割で訪ねている。目の検診のために医者に連れて行くためである。ここはお元気なのだが連れ合いを亡くされたりしてひとりでは生活が難しい方が入所している。食事はもちろん、ヘルパーさんを頼めば洗濯や掃除もやってくれる。義姉はこれに加えてお風呂も入れてもらっている。一人だとちょっと危ない。そんな方は他にもいるみたいだ。

何時だったか2階のエレベーター前の椅子に座っていたら一人のおばあさんが隣に座って話しかけてきた(逆だったかな?)。大体すれ違えば挨拶をするくらいで、なかには何も言わない人もいるからこんなことは珍しい。近くに住んでいたが身内が誰もいなくなったのでここでお世話になっていると自分からしゃべりだした。義姉の身内の者だということは分かっているらしく「○○(義姉)さんはいいね。良く訪ねてきてくれて」と言われたが天涯孤独?の身としては誰であれ、どのようなことであれ、訪ねて来てくれる人がいるということは羨ましいことなのだろう。私のことは何ひとつ聞かないで自分のことをしゃべって止むことはない。

自分はどこそこから嫁に来てと多分近在らしい。ケアの周りは畑で上は山になっている。農家が散在しているという感じである。おばあさんの若い頃はみな農家ばかりで田舎の今と同じような雰囲気ではなかったろうかと思うと、そんなことを思いながら聞いていると田舎でおばあさんの話を聞いているような錯覚にとらわれて思わずついふんふんと頷きながら聞いてしまった。もう何を言われたかはすっかり忘れてしまったが最初から若いときのことを言われていたように思う。昔はそうだったんだと頷きながら聞いていた。入所者が50人前後おられるようだが親しく話す人は少ないのかなと思った。あるいはほとんどいないのかもしれない。私のような者に親しそうに話している姿を見てそう思ったが実際どうなのだろう。家内が戻ってきたのでそれで失礼したが「おばあさんのつまらない話を聞いてくれてありがとう」と言われて、ただふんふんと頷きながら聞いていただけなのに彼女にとってはとてもうれしかったのだろう。

知識があれば教えたがるが知識があってもまず相手の話に耳を傾ける必要があろう。相手が過ちを犯したときであってもまず耳を傾ける。結論ありきは自己中の精神、気をつけなければならない。イエス様がサマリアの女に耳を傾けている姿を思い、パリサイ人や律法学者の犯した過ちは相手の話に耳を傾けなかったことであろう。
rom:10:17


「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」