2014年7月18日金曜日

「学問のすすめ」考

前にも書いたが今一冊の本をパソコンに写している。絶版になったわけではなく、ブラインドタッチと聖書の勉強になればとの思いでやっているが「二兎を追う者は一兎をも得ず」でうまくいかない。これで三冊目だから分かっていることだからやめないでやっている。もうやらないと思うがまた暇になったらやりだすかもしれない。まだ半分終えたくらいだからまず終えるが…。

福沢諭吉の現代語訳「学問のすすめ」を読みかけているがその中の「学問の要は活用にあり」にこういうことが書いてあった。
「…学問の生命は活用にある。活用できぬ学問は無学に等しい。昔、ある朱子学の学生が、多年江戸に留学して、朱子学について諸大家の説を写し取り、日夜勉強して、数年の間にノート数百冊を作り上げた。いよいよ修業も出来上がったから故郷に帰ろうというので、自分は東海道を西に向かい。ノートはつづらに納めて、貨物船に託して発送した。ところが、不幸にも船は遠州灘で遭難してしまった。この災難のため、その学生は、自分は無事に帰国したものの、学問はすっかり海に流れてしまって、身についたものは一つもなく、いわゆるもとの木阿弥で、その無学さは遊学以前と少しも変わらなかったという話がある。…」

自分も似ていることをやっているなとの思いと自分のやっていることは昔から誰かがやっていたのだなぁと実感した。古今東西愚かしいことをやっている者は尽きないのであろう。その中の一人にサルもいるということだ。

matt:10:42
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」 
という聖書のことばがある。

「水一杯を」と思うがそう思っていると案外そばにいてもわからないことがある。わかっていても水はあるからパンを少しと乞われれば落語の二十四孝ではないが「聖書にそんなことは書いてない」と憤慨するだけかもしれない。あるいは「水もあるパンもある。しかし、パンをあげるのは勿体ない」と断る手の方が多いかもしれない。相手が求めていることを知ろうとしなければ押し付けになる。こんなことを書いてないで家内の言っていることをすぐやらないとこれぞ愛。