2014年7月26日土曜日

通読を終える

聖書をゆっくり読んでも頭に入らないのならいっそ字面を追うだけでもいいからと始めた聖書通読を先日読み終えた。七か月かけてようやく終えた。失業して設備の仕事に就いて杉並区のある施設に勤務していた時、管理室には人がほとんど来ないのでそこではひたすら聖書を読んでいた。そこでは定期的にやるのは朝、昼、晩と三回記録を取るだけで、二交代制だから実質一回か二回とるだけ良かった。事務所から何か言ってこなければ何もしなくてもよかったし、それでもどこかの不具合があったりすると直したりはしたがそれはそれほどでもなかった。だから時間があったら聖書を読んでいたので3か月で読み終えた。仕事に来ているのか聖書を読みに来ているのかとそんなことがあった。今回は倍以上かかったがもう時間があっても根気もなくなり、老眼も進み目も疲れるようになった。それにパソコンとにらめっこもしているし今ゆっくりとマタイの福音書の系図を読み始めている。聖書を最初に手にして、本は最初から読むものと創世記から読みはじめ、新約の最初がカタカナの羅列で嫌気がさしてやめようかなと思ったが何かに促されるようにやめないで読んでいったことを懐かしく思う。何回か読んでいるとカタカナのことばはいくつか知るものとなると最初とは違って味わう思いが出てくるから感謝である。

何時だったか上沼先生のブログに、名前を忘れたがある人のことばとしてこんなことが書いてあった(間違いないと思うが)。「箴言」は若者に、「伝道者の書」は壮年に、雅歌は老人にと書いてあった。二つは理解できるが雅歌と老人はどうしても結びつかなかった。今少しわかるような気がする。あらゆるものが衰え、雅歌の歌など対極にあるように見えるがどっこいピッタリなのではと最近思っている。諸々のしがらみも薄くなり、希望と言えば手の届くところまできた天国である。
イエス様に恋をして、「あの方のすべてがいとしい」と告白できる年代に来ているのである。若者や壮年も告白するだろう。しかし、そこには人間的な打算が入って来る。老人は肉もしぼんで(だから皺だらけに)純粋に主を恋い慕えるのである。そしてこんな脱線もできるのである。