2014年8月25日月曜日

ルカの福音書15章考

ここは有名な放蕩息子のたとえ話が載っているところである。あらためて読んでみると色々と言うほどではないが示唆に富んでいる。

いつもイエス様の周りに二組のグループが集まっている。取税人や罪人と言われている人たちと律法学者やパリサイ人たちである。便宜上前者をA(エイ)たちとして後者をX(バツ)たちと書こう。Aたちはイエス様の話を喜んで聞きに来ている。聞きに来ているというよりイエス様の話を聞きたいために来ている。しかし、Xたちはイエス様の話とAたちを批判しに来ている。喜んで話を聞きに来ている人たちはそれでいいが批判するためにわざわざ聞きたくもない話や見たくもないA たちを見なければならないのによく来るなぁと思う。勿論世の中を騒がせ物議を醸していることを見過ごすわけにもいかず心中穏やかでないであろうとは思うがアテネの住民(使徒17:21)同様に暇なので耳新しいことに興味を持ってかは失礼かな。

よく聖書の中に二つを意味することが載っている。ここでもAたちとXたち、九十九匹と一匹、九枚と一枚、弟と兄など他の箇所を見ればきりがないくらいである。そしてこれら二つは比較されている。最初の二つは羊と銀貨であるがどこか共通している。九十九匹中の一匹、九枚と一枚、人は九十九匹を守るために一匹を見捨てる。九枚と一枚を天秤にかければ当然取るのは九枚である。人が目をつぶる一匹、一枚を探し出して見つけて喜ぶ姿は尋常ではない。一枚の銀貨を探すために一枚の金貨を必要としてもそれを成すであろう。かつてどこかの首相が「人の命は地球より重い」とまさに神はそのような視点で人を見ている。能力、価値ではなく人であるがゆえに命を懸けるのであろう。親が子にそそぐ目がそれである。この二つがこの後に出てくる放蕩息子のたとえ話の導入部分ではないかと思っている。

そして放蕩息子のたとえ話である。文面の2/3が弟の話なのでこう言われるのであろうが本来は「ある人に息子が二人あった。」と書いてあるように息子を二人持っている人すなわち「二人の息子を持つ父親の物語」と言った方がふさわしい。
多分当時ではあり得ないことであったであろう。弟が親が生きているのに財産を分けてくれるように要求したことは、しかし、父親はいとも簡単に分けてあげた。弟息子が放蕩で身を持ち崩すこと知っていて、心機一転事業を起こしてという意気込みであれば簡単に親はお金を出すが明らかに財産を使い果たす息子にこんなことをする親はいない、ここだけである。これと負けず劣らずすごいのは、放蕩三昧をしてボロボロになって帰ってきた息子を歓待することである。レンブラントの「放蕩息子の帰郷」を思い出す。弟は飯さい食わせてもらえればと思って帰ってきたのに父親は僕たちに「わたしの息子にふさわしいように」とでもいうかのように指示する。そして飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎである。

こんな様子を見て真面目な兄が怒らないはずがない。兄に限らずだれでも怒る。しかし、人は誰が見ても明らかなことと何か事が起こって明らかになることがある。弟は前者であり兄は後者である。弟が帰ってこなければそして父親が馬鹿なことをしなければ兄は立派な人だった。どうしょうもない弟が帰ってきたばっかりに自分の本心が明らかになってしまった。「私は反対だけれどもお父さんがそうしたいなら喜んで」と言うセリフは聞かれなかった。むしろ正反対の言葉が帰ってきた。弟はAたち、兄はXたちと言われるがそうかもしれない。しかし、誰が見ても明らかなことと他の人はもちろん自分も解らなかった本心(罪)がある時、ある場面で明らかになる。人は弟が「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と言うセリフが必要であろうし、「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と言われる父親の言葉を理解することはもっと大切であると思う。見失った一匹のヒツジ、銀貨を見つけ出した時のあの度を外した喜びがここにもある。そんな神の思いどれだけわかっているかわからないが人として来られたイエス様、そして十字架をおもうと神が払った犠牲は弟の財産の比ではない。そして兄のように理解されない。それでも成すのが神である。深みとは言わないがさわりでも味わいたい。