2014年8月14日木曜日

東京で思ったこと

蒸し風呂のような東京で2-3日過して信州に戻りフッと思わされた。こちらは暑いけれどもからっとして凌ぎやすい。冬は東京は寒さはきびしくないが信州は厳しい。原村や富士見は海抜千mを超えているのでさらにである。知人の方は上高地の麓?に住んでいるから諏訪の比ではない。暑さにしろ寒さにしろ凌ぎやすければそれほど問題ではないが逆だと大変である。信州にいると寒さが厳しいときは心まで凍てつきそうな気分になる。久し振りの東京で蒸し暑い逃げ場のない暑さを経験してこれも堪える。

人は「生きる」為により快適にと思考し行動する。既に快適であれば思考も行動もしない。厳しさがあるから思考し行動する。これは物理的な快適さだけでなく「生きる」ということ自体の中にもあるような気がする。信仰生活もそうであろう。恵まれた環境の中に信仰生活、教会生活を送れることは感謝なことである。忠実に歩んでいるから当然の結果として受け取っているかもしれない。しかし、そのような人たちは全体から見たら少ないであろう。個々には書かないが厳しさの中にあるから考えさせられ行動せざるを得ないということもある。それとボロボロになり、もがき苦しんでいる様はみっともないがそんな傍らに神が居られるし、それを実感できたら素晴らしい。このようなところで神を賛美するということは本物であろう。これは放蕩しなければ味わうことのできない恵みである。逆説的に…。