2014年8月18日月曜日

聖書が語ること

matt 4:12-17
ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
matt 16:21
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

マタイの福音書に二つの時が記されている。宣教を開始された「この時から」と十字架に向かう「その時から」である。「この時から」は人々が注目しスポットライトを浴びる時であり、「その時から」は十字架に向かって弟子たちで際も振り向かない時である。人々が注目する時は前奏曲のようなものメーンは十字架である「その時から」の出来事である。

イザヤの預言は神殿のあるエルサレムではなく、人々が目もくれない否むしろ無視されている地に偉大な方が活躍されることを預言している。エルサレムなんか注目の的ではない。厳粛な祭儀がいかに無意味なものであるかを証ししているようである。祭儀はまさに祭儀に過ぎない。厳粛に行いば行うほどこの祭儀はカリカチュア的である。この逆説的なことは人間の思いと神の思いがいかに乖離したものであるかがわかる。キリスト者の姿を見ているとこの姿から抜け切れない姿をよく見かける。何が第一で何が第一以外のものであるかをと書くサルもその一人であるが。