マタイの福音書に二つの時が記されている。宣教を開始された「この時から」と十字架に向かう「その時から」である。「この時から」は人々が注目しスポットライトを浴びる時であり、「その時から」は十字架に向かって弟子たちで際も振り向かない時である。人々が注目する時は前奏曲のようなものメーンは十字架である「その時から」の出来事である。
イザヤの預言は神殿のあるエルサレムではなく、人々が目もくれない否むしろ無視されている地に偉大な方が活躍されることを預言している。エルサレムなんか注目の的ではない。厳粛な祭儀がいかに無意味なものであるかを証ししているようである。祭儀はまさに祭儀に過ぎない。厳粛に行いば行うほどこの祭儀はカリカチュア的である。この逆説的なことは人間の思いと神の思いがいかに乖離したものであるかがわかる。キリスト者の姿を見ているとこの姿から抜け切れない姿をよく見かける。何が第一で何が第一以外のものであるかをと書くサルもその一人であるが。