2014年9月12日金曜日

一匹のヒツジ

教会におけるあらゆる形式の譴責の目的は、罰を与えること自体にあるのではなく、悔い改めに導かれ、迷い出た羊を回復することである。究極的には、教会のメンバーが除名されなければならない罪はただひとつである。それは悔い改めないことである。はっきりと悔い改めたときには、教会はその罪が赦されたことを宣言し、その人をもう一度交わりの中に受け入れる。

 これはS兄が訳している「聖書教理がわかる94章」の80章「戒規」の最後の部分である。以前にルカ15章にふれたが神が注目するのは99匹ではなく1匹である。99匹がどうでもいいというのではなく、99匹はほっといても大丈夫ということではないだろうか。しかし、どちらをという問いかけ自体がおかしいのかもしれない。失われた1匹が99匹の群れに再び加わり一つの群れとなることが目的であろう。方法論は色々あるだろうがそれは群れの責任者に委ねられていること。

胎児性水俣病という病気がある。妊娠しているお母さんが水銀を含んだ魚を食べて、その水銀を胎児が吸収して、お母さんはなんでもなくて子供さんが重い障害を持って生まれてくる。「自分の代わりにこの子が」と母親の苦悩は計り知れない。しかし、母親の中には、100%助けが必要ということもあるだろうがこの子と自分は不離一体の思いの中にあるのではないだろうか。これは神と人との関係にも置き換えることができるような気がする。やってあげたしてもらったは罪人の発想、神の思いは親の中に特に母親の中にその形を見る思いがする。


luke:19:10
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

2cor: 5:18
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。


イエス様は、「失われた人を探して救うために来た」と言い、パウロ「和解の努め」と言われた。当然のことであるがイエス様は失われた人を探すだけでなく、救うことがおできになる方である。こんな風に書くと失礼だがパウロは和解のことばをゆだねられただけである。勿論、パウロを低く見ているわけではない。神と人の違いを語ろうとしたのである。