2014年9月19日金曜日

日本の神々と聖書の神

東京にいるとき、職場が秋葉原だったので、神田明神や湯島天神は近かった。神田明神は歩いて10分、湯島天神も近くに保険組合と年金基金があって、手続等で行った時は必ず寄っていた。学問の神様だからそういうものの対極にいるサルだから信仰心があったわけではない。境内もそれほど広くなくというより狭い。それでも人はそれなりにいて、なぜか落ち着くのである。それと絵馬が沢山ぶら下がっており、これをよむのが好きなのである。絵馬はここが元祖なのだろう?ほとんどがどこそこに合格しますようにの言葉が多い。数少ないが合格したことを報告して感謝しているのもある。微笑ましいが中には有名な大学がふたつも受かったことが書かれてあったりすると何となく嫌味だなぁと思ったりするが本音は。それとちょっと先の入谷の鬼子母神や浅草の浅草寺も近い。別にこのことを書こうとしていたわけではない。つい身近で知っているので書いてしまった。もうこのブログで何回書いただろう。

フッと思ったことなのだが日本の神々は、何かをしてくれる神である。神田明神は商売繁盛、湯島天神は学問の神様、経営者や受験生には欠かせない神様である。ただ拝んだからといって商売がうまくいったとか、受験が受かったとかは定かでないのが残念である。場合によっては何もしてくれないという事も少なからずあるのではと思ったりもしているがどうだろう。
それに引き換え、聖書の神はすべてのものを造られた神である。造ったという事は造られたものに対して責任を持っておられるということができる。有名な陶芸家が気に入らないからと陶器を粉々に壊しているのを見たことがある。プロとはこういうものだろうなと思ったりする。プロが見たら気に入らなくても我々が見たら十分素敵だと思うがだからゆずってやるという事はない。陶器にはプロの名が冠しているから沽券にかかわる。

全能の神がご自分に似て造られた我々、それにしては実にお粗末である。陶器師のように粉々に砕かないでイラく大切な者のように我々を扱ってくださる。天の御国のたとえでは話されるがその論法でいうとイエス様の受肉と十字架は、我々を滅ぼされないで、我が子イエス様を滅ぼされたという事ではにか。見方によってはイエス様より大切な者のように映るのではないか。造られたとは何かをしてくれたのではなく、被造物に対して責任を持ってくださるという事なのである。だから大船に乗ってではなく、この神は偉大な神であり、その神が我らのためにと思うと胸がふるいるのである。この方をさらに知ることができたらと思うが…。