2014年9月27日土曜日

聖書教理がわかる94章

「聖書教理がわかる94章」を6月の何時頃からか始めて今日打ち終えた。一日一善ではないが一日一章、一週間五章の目標でやってきたが大体そんな感じになった。身についたと聞かれたら「ツカン」と答えるしかない。ブラインドタッチも進歩がないなぁ。千鳥足ならぬ千鳥指である。本を見ながら打つのと画面見ながら打つのでは大分違う。画面見ながらだと大体間違わないが本を横にして見ながらでは結構間違う。間違うというより母音が抜ける。それとこちらの責任ではないが変換が変に変換される。でも2003に比べて2013は語彙も増えて大分良くなっている感じ、漢字の追加もあまりしなくてすんでいる。

どれだけ身に着いたかが問題だがこれが問題、ほとんどついてない。でも最初から分かっていたからショックはない。これから必要な章を見ていけばいい。小さな集まりだから教会の概念がというか意識が少ないのではと思っているので「教会」を参考に話そうかなと思っている。救いは単純?だが教会の奥義は深い。深くは汲めないから簡単に。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」の木宮良子の名ナレーションで始まる「君の名は」、日曜の8時台、女風呂が空になると言われるほどの人気だった。キムタクなんか目じゃない。

この年になると忘れっぽくなったのか覚えられなくなったのかはたまた両方か、多分両方だろう。 大分前に忘れっぽくなったことが意識するようになって前半の「忘却とは忘れ去ることなり。」がまさにそうだと記憶によみがえってきた。最近さらに進んだ所為か後半を思い出している。後半は忘れようとしても忘れられないということだろうから哀しい現実があるが考えてみれが羨ましい限りである。しかし、嫌なことも忘れるからまるっきりダメと言うわけではないから功罪相半ばするか。

パソコンに打ちながら、前の所を読み直したりして頷きながら、覚えられない忘れやすいは年の所為だけでなく、学生や社会人のように覚えなければならないという切羽詰まったものがないからだとおもうようになった。忘れても困ったで済むから努力が欠落しつつある。これは下記の聖書のことばがそう遠くなく経験するだろうという思いもあるからである。
1cor:13:12
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。