2014年9月29日月曜日

御岳山噴火

昨日のお昼にTVを見ていたら画面の脇に御岳山噴火と出ている。木曽の御岳山とは最初気づかなかった。その前日は出かけていて夜帰ってきたからTVはほとんど見ていない。昨日は午前中集会でTVは帰って来てから昼食の時につけて気が付いた。朝出かけるとき車に白い砂がうっすらと掛かっていた。今頃黄砂かと思いながらモップで拭いたのだがあれは噴火の灰だったのだ。詳しい内容がわからず溶岩も流れていないようなので最初は広島の土石流災害の時と同じように軽く考えていた。灰をかぶっている登山者の姿を見てそれでも助かっているからとそれほどでもなく思っていたが次第に明らかになり、そのすごさを改めて知る。最初は数名の心肺停止者がいるとテロップで流れてそのくらいかと思っていたら30数名がすでに亡くなっているとか、考えてみればシーズン中の出来事、大勢の登山者がいたのだろうと思うと数字はもっと上がるのではないだろうか。
浅間山は偶にあちらの方に出かけるときは煙が出ていることがあり、ここは活火山なのだとという認識を何時も持っている。爆発したらどうなるだろうなどと考えたりしていたが御岳山は全然なかった。それに少し遠いから実害はないし、精々降灰位なものである。しかし木曽の方は降灰で野菜が大変みたいだ。
それと詳しいニュ-スが入ってくると降灰のすごさが伝わってくる。熱さと岩石、それと見ている前で灰が積もって動けなくなっている人をの活字を見て、聖書の中のソドムとゴモラが滅ぼされ、ロトの妻が振り返って塩の柱になったあの箇所を思い出した。溶岩でなら一瞬で跡形もなくなるだろうが灰は熱くとも形は残るのであろう。

1thess: 5: 3
人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
終末はこのようにして来るのだろうかこうでなくともこれに近いようなことは起きるのだろう。戦争と戦争のうわさより、平和だ安全だと言っている時がもっと危機的であろう。正直言って実害がないとどこかのんびりして切迫感がない。反省しなければと思いつつ、霊的切迫感を養わないと思わされた。