2014年10月17日金曜日

今も生きているもの、失ったもの

幾つかのブログをお気に入りに入れて読んでいる。長文や難しい神学などが書かれていると斜め読みであったり、タイトルだけで終わりということもある。それらの中に時折本の名前が出てくる。その中で興味あるものをアマゾンでみる。あれば注文して、大体千円から二千円くらいのものが多い。神学的なものは難しいのと高いので今は買わない。少し前までは難しいなと思いながらかじってみたくて買ったりしたことはあったが歯が立たないので今はない。最近買う本は大体読みやすい。

後藤敏夫さんの「どこかに泉が湧くように」のブログに「来てください沈むことのない光」の名前が載っていた。珍しい題名なのでアマゾンで検索したら在庫があり注文する。本を手にしたらサブタイトルに「初期キリスト者たちのことば」とあった。この本はテゼ共同体で編集されもので、このテゼ共同体なるものは訳者があとがきで紹介している。


訳者あとがきに、(一部抜粋)
 第二次世界大戦の火ぶたが切られて2年め、1940年の夏、25歳のロジェは、故郷スイスを離  れ、フランスのブルゴーニュ―地方にある寒村テゼに足を踏み入れました。その時、彼は一つのあこがれを抱いていました。それは、戦争による世界の分裂の中で、人類の「和解のしるし」、「交わりのたとえ」になるようなキリスト者の共同体を始めたいというあこがれでした。ロジェは一人テゼの村で暮らし始め、ナチスから逃れてきたユダヤ人難民たちを自分の家に迎え入れ、かくまいました。やがて彼のまわりに、その志に共鳴した仲間たちが集まり、祈りと労働の共同生活が始まります。
 これが、今日エキュメニカルな男子修道会として知られているテゼ共同体の始まりでした。現在テゼでは、カトリックとプロテスタント諸教派出身の約100名の修道士(ブラサザー)が共同生活を送っている。その中には、世界の最も貧しい地域に身を置き、現地の人々と一緒に祈りつつ生活する修道士(ブラサザー)たちもいます。またテゼは、年間を通して何万もの若い人々が世界各地から集まり、共に祈り、黙想し、語り合う、出会いの場としても知られている。』

エキュメニカルと言われると人間的な思いと力の結びつきの感があり、サルは否定的である。「しかし、彼らは祈りと黙想を主体としそこから行動を起こしている。そんな雰囲気があり、共観が持てる。序の部分に、
 

はじめに

 不可分ふりがなで「ひとつ」とあるの教会の証人たち

年間を通じて数多くの若者たちを迎え入れながら、テゼの丘に暮らすブラザーたちの共同体はいつも変わらなぬ問いを抱いている。
 「どのようにして、この若者たちと共に、信仰の源泉へと向かっていけるのか。どのようにして、神への信頼の内に生きがいを見つけ、自分自身を捧げる勇気を見出していけるのか」。』

との問いに、

 『困難な状況の中をくぐり抜けるときにも、聖霊に支えられて、信仰からくる信頼を自らのうちに繰り返し芽生えさせるためには、同じ道を先に歩いた人々による道案内が必要である。彼らは私たちの深みに、信頼という大胆さを呼び覚ましてくれます。…私たちのすぐ近くに神の愛の証しをする人々がいると同時に、その先達たちがいます。わたしたちがキリストに従い、信仰の神秘をより深く理解する旅を続けるためには、あらゆる時代のキリスト者たちの信仰によって支えてもらう必要があるのです。
 そのような目的で、テゼ共同体はこの抜粋集を作成しました。今日を生きるわたしたちが、「教会教父」と呼ばれる初期の偉大な証人たちに耳を傾けるためです。…』

そして、教父と言われている人たちが語り、記したものがこの本である。まだ最初しか読んでいないが最初の手紙を読んで、二千年の隔たりを感じない。共感を得るのである。そしてまた、物の豊かさの中で失ったものを明らかにしている。今日の教会を見るとといっても側面からであるが伝道と教会生活が中心である。この二つは大切であり、信仰生活に欠かせないものである。しかし、初代教会はそうでもなかったように思われる。伝道や教会生活はどこかアクティブのように見えるが「守」なのである。その枠から外れたらジ・エンド。ペテロのメッセージで三千人、五千人と信者が増えていく中で個もないであろうと思われるが一人一人個が大切にされているような気がする。それは福音書を読むときにイエス様がそのようになされた。御霊が弟子たちをイエス様と違った方法を取ることなどありえない。最初に、


使徒時代

  生きよう、世の魂として

 一世紀末および二世紀のキリスト者たちが生きた時代は、まだ使徒たちの時代から、そう時を隔てていなかった。ほとんどの場合周囲から認められることのない中で、彼らは新しい生き方を示していた。それは、キリストの復活への信仰に根ざしした生き方。その中に殉教者たちがいた。殉教者たちは、道を照らす光のようであり、すべてを新たにするキリストの愛の生きたしるしであった。

ディオブネトスへの手紙
 190-200年ごろ。著者の名は不明。非キリスト者に宛てて書き送られている。

 キリスト者は、国によっても、言語によっても、衣服によっても、他の人々と区別されません。特別な町に住んでいるわけではないし、風変わりな方言を用いるわけでもありません。(・・・)衣服、食物、生活様式などについては、その土地その土地のやり方に順応しています。しかし、彼らは、ただ神の霊によって生かされるひとつの共同体に卜しているがゆえに、驚くべき、全く逆説的な態度を示します。
 彼らは市民としてのあらゆる義務を果たし、税を負担しています。すべての外国も彼らにとっては祖国であり、またすべての祖国が外国です。彼らはみなと同じように結婚し、子どもを持ちますが、生まれたばかりの赤ん坊を捨てたりはしません。また、皆で同じ食卓を共に囲んでも、皆と同じ寝床に入ったりはしません。この世に生きていますが、この世に従って生きていません。地上での生を送りますが、天の市民なのです。定められた法律に従っていますが、彼らの生き方はそれらの法をはるかに超えています。
 彼らはすべてを愛しますが、人々は彼らを迫害します。彼らを認めず、非難し、殺します。しかし、それによってキリスト者たちは命を得るのです。彼らは貧しいですが、多くの人を富ませます。すべてを欠いていますが、すべてにおいてあり余るほど豊かです。人々は彼らを軽蔑しますが、彼らはその軽蔑に中に自らの名誉を見出します。人々は中傷しますが、それによって義とされます。人々は彼らを侮辱しますが、彼らは人々を祝福します。(・・・)
 ひとことで言えば、からだに魂が宿るように、キリスト者はこの世に宿る魂なのです。魂が体の各部に行きわたっているように、キリスト者もこの世の町々に浸透しています。(・・・)
 迫害されても、キリスト者は日々のその数を増しています。神が彼らに委ねられた責任はあまりにも重大です。そこから逃げ出すことができないほど、重大なのです。

 神が人類に遣わされたのは、ほかでもなく、宇宙の創造主であるキリストです。人間の知性ではこれを思い描くことができないので、この神の行為について横暴さを感じたり、恐れや不安を抱いたりします。しかし、決してそうではなく、全くの善意とやさしさのうちに、一人の王が、やはり王である自分の子を遣わすように、神は、神である御子を遣わされました。それは、荒々しい力によってではなく、説得によって人類を救うのがふさわしいと思われたからです。神のうちにはいかなる暴力も存在しません。神が御子を遣わされたのは、私たちをとがめるためではなく、ご自分のもとに招き寄せるためでした。わたしたちを愛しておられたからであり、裁くためではなかったのです。』