2014年10月17日金曜日

思うこと

共同訳は章、節に関係なく内容区分ごとに小見出しがついている。聖書をよく知らない人にはとても便利であろう。よく知るか知らないかは別にしても短い言葉で内容を知ることができることはサルにとってもとても便利である。来年の通読は共同訳にしようかなと思ったりもしている。新改訳聖書の革は持ち物の誇りに繋がるようで抵抗あるのにどう間違ったか共同訳は革である。だから何と聞かれても困るが…。

エペソ書1章3節から14節は、共同訳では「神の恵みはキリストにおいて満ち溢れている」と題がついている。3節に「…父である神は、ほめたたえられますように。…」、6節に「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」、12節に「…以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」、14節に「…神の栄光をたたえるためです。」と、たった12節の中に「神をたたえる」言葉は4回も出てくる。ここを見ているとまず第一になすべきことは神をほめたたえることであることがわかる。まさに一に「神をほめたたえ」、二に「神をほめたたえ」、三・四がなくて、五に「神をほめたたえ」ることであろうか。罪にまみれている中でも「神をほめたたえる」ことが必要であろう。その前に「悔い改めが」となるかもしれないがそれは教会でやればいい。第一のものを第一とするなら自ずから第二のpものは第二となる。真に第一のものを第一にしなかったら第二、第三のものが第一の位置についてしまうのである。

最近でもないがよくTVに成長している会社がプロジェクトの責任者を若い人たちに委ねている。そしてそれを成功させているのを見るとすごいなぁと思う。経営者がそれだけの力があることを見抜いていたのであろう。翻って教会で賜物と言われるものは、厳密には賜物ではなく能力ではないであろうかと思ったりしている。敢えて能力と言わせてもらうが能力のある人たちが多く集って、信者の人数も増えて大きな組織となっている教会を知っている。しかし、その内実は分からないがそこを出されたり、出たりしている人を身近に見ているとその人たちに問題があるようには見えない。真に賜物があればそんなことはありえないはずだが能力とすれば理解できる。

3節の「天のあるゆる祝福で満たしてくださいました。」と、この祝福は目に見るものは勿論、目に見えない諸々のものを含んでいる。過去形になっており、極端な言い方をすれば罪にまみれていようが群れの外にいようが「祝福で満たす」ことには変わりはない。信仰がエレベーターのように上がったり下がったりしていようが関係ない。神が宣言したことは絶対なのである。わたしたちが見落としがちな目に見えない霊的祝福を見失わないようにしたいものである。

2章の小見出しは「死から命へ」、ここでは罪と死と救いが記されている。これは次に来るものであることをパウロは言っているような気がする。まず第一は「神をほめたたえる」、それから救いが来るとサルは信じている。救われなかったら「神をほめたたえ」られないではないかと言うだろう。事実そうであると思う。しかし、これが第一に来ると第一のものが第二、第三になるのである。以上