2014年10月18日土曜日

思うこと 続き

この年になるとナイナイづくしのサルではあるが健康であることに感謝している。内実は大分ガタついてはいるが日常生活に差し障りもなく、最近は3-5キロを週五日の割で歩くようにしている。それと時折自転車に乗っている。お蔭で運動不足からくる心臓の痛みも最近はあまりなくなった。昨日は少しゆっくりではあったが100mばかり走って膝と心臓に痛みを感じなかった。これで中性脂肪も減り、血圧も下がると万々歳だがどうなるか。

昨日、霊的祝福について少しふれたがキリスト者が祝福という時、健康、経済的、仕事、教会生活が守られているとよく使うのではないだろうか。確かに感謝なことであり、祝福であるかもしれない。しかし、これらが守られなかったら祝福ではないと言えるだろうか。キリスト者の中に信仰を因果応報的に捉えるきらいがある。忠実に歩いているから祝福があり、何か問題あると信仰に問題がるのではと自分も他者も憶測する。わたしたちが祝福されているという時、それが地上の営みの中で捉えるとそれは絶えず変化していく、地上では不変はあり得ない。それに伴って信仰を推し量らないだろうか。神の祝福は不変なはずである。間違っているとは思わないがどこかボタンの掛け違いをしているようで仕方がないのである。健康でなくても、お金がなくても、仕事がうまくいかなくとも、教会生活に何かと悩むことがあっても神の祝福は不変であろう。勿論、大変なことであることはよくわかる。といっても経験している本人しか解らないことではあるが。こう書くことこの辺は超越しているのかと思われるそうだがこの辺は現在進行形で自分もその渦中にあるということなのである。こんなことを書いて自分を納得させているのかもしれない。それでも神の救いや恵みの高邁なものが人間の低い次元に引き下ろされているようで仕方がない。