2014年10月20日月曜日

この女が

こちらに引っ越してきて感じたことがある。田舎に行った時に感じるのと同じもので、それはここでは通用するが都会では通用しないなということである。多分、田舎の人もここに住んでいる人もそんなことは考えたこともないしこれが当然と思っているだろう。このことを感じたのはそう昔ではない。しかし、この伏線がある。自分が集会に集い信仰生活をしている中で感じたことがあった。それは外国の宣教師たちと接していく中で感じたことである。アメリカ人、イギリス人、ドイツ人といたがどこか際立ったものはなかった。彼らにではなく彼を通してよくわからないけど自分は典型的な日本人であることを教えられた。細かく分析する能力はないがそれを強く教えられた。

今振り返ってみれば、同じ日本人の中にいればそこで比較しても同じ日本人である。そう思いにくいが大した違いはない。文化とか気質の違ったある意味で異質なものを前にして逆に相手も然りだがそれ以上に自分の裸を見せつけられる。そして自分の真実を知るのである。真実を知ることはいいことかもしれないが知らなくてもいい。あるいは田舎やこの土地の人たちはそれで満足していたらそれでいいのかもしれない。

アダムが神に裸であることを問われたときに「この女が」と言った。「…私の骨からの骨。私の肉からの肉。…」と小躍りして叫んだのに「この女が」と言ってしまう。なんと大きな様変わりであろう。罪は一つのものを二つにしてしまった。否一つになれなくなったのである。そして否定する世界が生まれた。カインはアベルに妬みを感じたかもしれない。それよりアベルを受け入れられなくなったと見る。移植された臓器が拒否反応を起こすように、バベルの塔に表される人間のおごりは、人が神になろうとしたのではなく、神を拒否した結果があーなったのだと思っている。結果は同じか。自分が否定的な人間であることがわかったのは神が肯定的な方であるとわかった結果である。罪の世界は絶えず分離していくように感じる。相手と違うことで自分の存在を示していくように思う。イエス様は罪を贖いあらゆるものを一つにしようとしてくださっている。すべての人が悔い改めるときが来るのだろうか。