2014年10月3日金曜日

疲れ

以前ある牧師のブログを要約するのが面倒で丸写しにして載せ、それに?を加えた文章を書いたらどこでどう見つけたのかコメントが帰ってきた。このブログは発信とより自分のリハビリのための文章書きなのでただ書くだでけコメントが来ても返事は書かない。というよりも書けないと言った方が正直なところであるが。何事もそうなのであろうがIT関係と書くと大げさだがパソコンを使っていて、一つ分からないとその先に行けない。ダメなものは後回しにして解るところからとはいかないところが嫌なところである。アイ何とかは使えないがタブレットはいつか使えるようになりたいと思っているが能力的にも金銭的にもまだそこまでいってない。コロンブスの卵ではないが何だそんなことかで終ってしまうのが大半であるからパソコンは苦手だぁ。自己流でやってきたけど、最初の頃は息子のパソコンを何回もおかしくして今日がある。息子たちには色々な意味で、即ち、中には単純に感謝できないものもあるが感謝している。前置きが長くなったが先月の上沼先生のメールの中に部分抜粋だがこのようなことが書いてあった。見つけられないからというのではなく、要約して書けないので無断転載させてもらう。しかし、コピーして貼り付けではなく、ブラインドタッチの練習を兼ねてこの指で写している。どこもかしこもスムーズにいかないお年頃、指も然りである。


 『他者を視点に哲学してきたレヴィナスに「疲労」についての文章があります。ユダヤ人でしたが、フランス軍に従軍してドイツ軍の捕虜となって重労働についてときに書いたもので、戦後すぐに出版されています。興味深いのは「疲労」を哲学のテーマに取り上げていることと、「疲労」が他者をとらえていく契機にもなっていることです。

 それまでのドイツ観念論を中心にした西洋の哲学は強者のためのものでした。現象学が出て来てから人間が醸し出す重い気分が哲学のテーマになってきました。ハイデガーの存在の「不安」とかサルトルの「吐き気」が、人間のあり方を知る手がかりになってきました。それでも自分を中心とした存在理解です。レヴィナスにとっては、自分の手に負えない「疲労」が、自分の手に負えない「他者」を考える契機になっています。他者を視点に自分の存在を考える、今までにない思考です。

 疲れたとき、疲れ果てたとき、自分が自分でなくなり、手が負えなくなります。それでも自分から逃れることはできません。疲労を負ったまま自分であることに耐えなければなりません。休息を取ることで自分を回復していきます。それでも休息を取っても回復しない疲れがあります。疲れが知らないうちに積み重なって、自分であることを放棄したくなります。それでも自分から離れることはできません。だれにも理解されない、誰とも共有できない「一存在の孤独」です。

 レヴィナスはそんな疲労のもたらす「ずれ」を人間の存在を理解する手がかりにします。「疲労の基本的性格」を「存在の自分自身との食い違い」と表現します。「ものに従事できなくなること」であり、「存在が自分の執着しているものと不断にますます食い違ってゆくこと」です。自分の存在には自分の手に負えないことが避けられないこととして侵入してきます。どんなに堅く自分を守っていても忍び込んできます。レヴィナスはそれを疲労という誰もが経験する現象の分析から捉えたのです。

 レヴィナスは、疲労をこのように他者を視点に入れる手がかりとして、さらにそれに伴う私たちの営みそのものをも他者の視点で見ていきます。仕事、結婚、家庭、子を生むこと、年を取ること、どれも疲労が伴っています。驚くことに実際に、レヴィナスはこれからを哲学のテーマとして展開していきます。身近なことで自分の手に負えないこと、それに囲まれていること、それがまさに人生です。自分ですべてをまかなっているかのような錯覚からの断絶です。

 父の看病も当然疲労が伴います。それでもどこかで回復できます。父は少しだけ回復して、また休む間もなく坂道を登り続けなければなりません。そんな父を見ていて、また父を看病していて、「疲れること」「疲労」が人生に重くのしかかっていて、しかも自分を外から見ていく手がかりになり、さらに自分を超えた彼方を見ていく手がかりにもなっているのだろうと、思いを馳せています。』


先生は哲学を勉強されているので神学とか哲学のことを書かれるとレヴィナスの名前くらいはわかるが後は斜め読みなってしまう。このくらいだとレヴィナスだけでなく他も何とか理解できる。というよりどこか共観するものがあるからだろう。年を取って色々な「弱さ」というものを自分の弱さを通して、他者の弱さを見えることがある。リタイアする前は「自分の弱さをどう見せないようにするか他者の弱さを鋭く批判する」そんな姿を思い出した。今は自分の弱さを隠すこともなく、また他者の弱さに共感できるようになった。

ここに書かれていることと合うかどうかわからないが「疲れ」というものも身近に感じている。それは肉体的なものも然りだがそれ以上に精神的なものあるいは心と言ってもいいかもしれない。弱さにつながるものがある。あるいは傷つきやすい?タフではないのである。イエス様は、
matt:11:28
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
と言われた。重荷を負ってイエス様のところに行けばいいのだが重荷を置いてイエス様のところに行く。だからいつも重荷を背負っている。これが弱さであり、そこから疲れが出てくるのである。言わんとしていることと自分が思っていることとは同じであるかはどうかわからないがこのことを読んでそんなことを思った。