2014年10月8日水曜日

自転車で

髪が伸びたので久し振りに自転車で床屋に行ってきた。床屋も自転車もW久ぶりなのである。ここ何日か歩いているので息切れはしなくなったが久しぶりの自転車だと膝に負担がかかるのがわかる。それでも少しペタルを踏んでいるとそれほどでもなくなった。湖畔端を走り釜口水門の手前から中に入って行くとかすかな上り坂になる。踏切を渡り丸山橋陸橋の急坂を上らず脇にそれてイルフの脇に出る。丸山橋は急坂なのに脇は坂を感じさせないほど緩やかである。昔飲み屋街だったのかその看板もありまだやっていそうな店もチラホと見える。そこからゆっくりとゆるやかな坂を下って床屋へ、この店は駅の近くにあるので終わってから駅前のララ岡谷に寄る。ここも久しぶり、LCVや周りの店は変わらずで、以前来たときは広く空いていたところにリサイクルショップができていた。人はちらほらだが空きスペースが埋まっていることはいいことだ。そこを後にして戻るようにイルフの食品館などによって、いつものように狭い道をあっちに行ったり、こっちに行ったりとぶラブラと走る。自転車の楽しみはこれにある。歩いて庭先をじろじろ見ると何者かと怪しまれるが自転車だとそう見られてもサッと行けるから安心である。時には行ったり来たりして見ることもあるから実に都合がいい。しかしあまりじろじろ見ていると空き巣狙いに間違われるかなと思ってさりげなくやる。

人が移動する手段によって、当たり前のことだが目に見えるものと距離が違ってくる。歩いていると足元と身の周りがよく見える距離が出ない。自転車は距離が延びる。バイクはさらに距離が延び、それと山の中や急坂でも入れる。自動車は距離が出るが細かい身の周りは見えない。信仰生活や教会もこれらに当てはまるような気がする。大きな教会は人も大勢集まり、活動も活発で効率がいいから結果が出る。小さいところは十年一日のごとく相変わらずで変化はない。あるとすれば平均年齢が上がったくらいとなる。どことは言わないが。まぁ色々な移動方法があるように信仰も然りであって当然であろう。神はそれを良しとされたと思うがちょっと言い訳っぽいかな。現代は効率一本やり、愚鈍のことばは過去のものとなった。しかし、ここにしっかり生きている。