2014年11月17日月曜日

神よ

先週は東京からいつものMファミリーに加え、HファミリーとN姉妹(肉親の姉妹)と賑やかな集会だったが今日は8人と何時ものメンバーだけ、H姉の息子さんがちょうど帰っていて加わっての人数である。このギャップに少々萎える。それに午前中で終わるから猶の事鮮明になる。月に一回賑やかな集会があるだけでも感謝すべきであろう。事実、励まされ、助けられている。ただ受けるだけの集会というのは弱い。与える集会でないと力は出ない。イエス様のことばとして「受けるよりも与える方が幸いである」(使20:35)とある。霊の喜びをもってアクティブにと思うがこればかりは肉のわざではできない。人は助けられているようで助けており、人を助けているようで実は助けられているということは多々ある。わが集会ももしかしたらそのような集会であるかもしれない。

若いときに聞いた落語で題がそうだったかあるいは小噺であったか忘れてしまったが「長屋の花見」というのがあった。お酒を持ち寄りで花見に行ってその酒を飲んだら水であった。俺一人くらいとの思いがみんなの思いだった。だれだかわかる料理ならこのようなことは起こらないが誰かがわからないとなるとこういうことになるのが人間なのである。長く続けているといのちを失って形だけが残るということが少なくない。「いのちは形を求め、かたちはいのちを求める」という看板が仏具屋さんにあった。そして、いのちは形にとらわれない。ダビデが裸で踊った様はまさにそのようなものであろう。ミカルは体面を保とうとした。その差は大きい。反省を込めて、そしていのちを求めて