2014年11月25日火曜日

一つの疑問

高橋三郎先生は「ルターの根本思想とその限界」の再版への序の中にこのように記した部分がある。「…人は信仰のみによって義とされるということは、宗教改革の基底をなす重大な命題であり、福音はこれによって、あらゆる人に解放されたのであったが、これを少しく言いかえ、『信仰がなければ人は救われぬ』、しかしもそれは『正しい信仰』でなければならぬ、ということになると、本来あまねき恵みの提示であった筈の福音が、一変して徹底的差別の原点と化す。そこにいかなる惨事が引き起こされるか、二千年に及ぶ教会の歴史は、つぶさにこれを実証したのである。しかも微妙に重大なこの福音の変質の根底には、キリストの救いにあずかるためには一定の条件が満たされなければならぬ、しかもその原因と結果は一対一の関係で対応するという法律的思惟形式が、深くかかわっていた。しかもこれは、カトリックとプロテスタントの別を問わず、二千年の教会史を一貫してきたものではないかというのが、この論文の提起した問題である。」と書いている。

どんなに素晴らしいことが行われても人間が行うことには完全ということはあり得ない。ルターやカルヴァンの宗教改革も然りであろう。エーリッヒ・フロムは「カルヴァンの予定説は、最も生き生きした形で、ナチのイデオロギーのうちに復活した。すなわちそれは、人間の根本的不平等という原理である。カルヴァンにとっては、二種類の人間が存在する―すなわち、救われる人間と、永劫の罰に定められている人間とである。…人間の平等は原則的に否定される。人間は不平等につくられているのである。この原理はまた、人間の間にどのような連帯性もないことを意味する。…」(自由からの逃走)。人間の間に連帯性を失ったらその先はない。福音書のユダヤ人の世界と変わりはない。昔、岩波ホールで観た「コルチャック先生」を思い出した。最後はユダヤ人の子どもたちとアウシュビッツ?に消えていくのを連想されるシーンだった。生命を失うけれど子どもたちとの一体感が感動させる。

詳しくは知らないが宗教裁判と言われるものは聖書を曲介して起きたものではないかなと思っている。ある時代にある特定の人が行ったというのではなく、キリスト教会の根底に流れているものが時と人を介して浮上したそんな感じを受ける。現実の問題としたら「紙一重」の問題なのであろうがこれが分水嶺のごとく、そして似て非なるものとなる。心しなければと思う。つい自分と違うものを見ると批判しがちになるが物事は前向きで捉えるように努めよう。キリス・トイエスの心を心としたいものである。