2014年11月4日火曜日

「と」か「が」か

「主とともに歩む」というT伝道者lのブログをお気に入りに入れて読んでいる。色々示唆に富んでおり、奉仕先でのことなども書かれているので知っていると懐かしさを感じる。地名などが出てくるとグーグルやマップで検索したりしている。毎回ではないが聖書と福音を聞いたりしている。廉価で毎月送ってもらっている。一人はPCから取り込んで聞いており、それができない兄姉にコピーして渡している。短いメッセージは分かりやすく、少し時間のあるときでも聞けるから幸いである。

このタイトルに何かを言うつもりではない。最近、主とともに歩んでいますかとメッセージの中で語られたのでフッと考えた。それと同じ言葉なので引用しただけである。
メッセージの中で問われたとき自分はあまりそんなことは考えたことはなかったなぁ、「主のために」とか「主とともに」というアクティブなものはダメなのである。自他ともに認めるいい加減が着物を着て歩いている人間だから楽を考えてしまうのである。

「主とともに」と喜んでいる信仰者はそれはそれで感謝なことであり幸いなことである。しかし、信仰者の中には「主とともに」歩もうとすると努力を必要とする人がいる。サルもその一人なのである。
「ともに主がおられる」という結果は同じでも「主がともに」おられるというもう一つの歩みがある。何もしなくても上がろうが下がろうが罪を犯そうが「主はともに」おられるのである。偏在する神であれば当然であろう。神学のシの字も知らない者の独断である。能動的か受動的かの違いだけであるが大きな違いがある。能動的は肉を通して主に奉仕する。受動的は弱さを通して神に至る。正直言って「弱さに足踏み」するきらいがあるが、身近に主はおられるのだからすぐレスポンスすればいいのだがそれが…。時間はかかる。しかし「が」で行こう。否、これでしか行けないのである。