2014年12月17日水曜日

ギンナン

何時だったかイオンの帰りに近くの公園の脇を自転車で通ったらおばあさんが何かを拾っている姿を見て何だろうと思った。何気なく上を見上げたら真っ黄色の葉をつけたイチョウの木があったのですぐわかった。ギンナンを拾っていたのだった。もう一本もあったのでゴム手袋にスーパーの袋をもって拾いに行き袋八分目くらいになったので帰ってきた。それから何日かして外の洗面台で臭いにおいをかぎながら皮をむき実を陰干しする。それでも何となく匂うが乾燥させたらそのにおいも消えた。それから何日かたって行ったら何もなく、おばあさんが拾っていた木のところに行ったらたくさんギンナンが落ちている。だれも拾っていないようである。なんでだろうとかき集めるようにスーパーの袋にいっぱい入れ、翌日も手でかき集めるように拾ってきた。一本は落ちていないので拾った形跡があるのにこちらはそれがない何でだろうと少し気持ち悪い気がしたがどうも粒が小さい所為かなとそれしか考えられない。そこは二回で終わった。

子どもの頃は網で魚を取ったり、秋には栗を拾ったりするのが好きだった。食べたいことよりもその行為が好きなのである。何時だったか栗をたくさん拾って箱に入れていたら父が大阪のおばぁちゃん(と言っても父の姉であるが)に送ったら喜ぶよと言われてそのまま父に任せた。無くなっていたので送ったのだろう位の意識しかなくそのことは忘れていた。就職して伯母さんから手紙をいただいたときにそのことが書かれていて、食べ物がないときに嬉しかった旨のことが書かれてあって、もう忘れていた些細な行為がこんなに喜んでもらっていたのかと不思議な思いがした。そして転職して給料前になると金欠になり、昼食抜きになる頃伯母さんからの手紙がくる。そこには必ず千円札が3枚ばかりはいっていた。これで昼飯が食えると喜んだものだった。伯母さんは苦労しているからそんなことがわかるのだろう。キリスト者になって、ケリテ川で烏にに養われたエリヤの箇所を読むとそのことを思い出す。そのこととともに多くの人たちにお世話になって今があるなぁと思い、二三の人が浮かんでくる。それだけだめな人間なのである。返せない負債だ。最大の負債はイエス様だけど。

ギンナンといえば茶碗蒸しの上にあるギンナンしか浮かばない。いつもなんでギンナンがと思うくらいでおいしいものではなかった。食べたいためにとったのではないから最初にとったのをほとんど婦人会の祈りのときに家内に持たせた。持って帰るかなと思ったら全部貰ってくれた。N姉が好きらしく大半持って行ったとか、2回目の持たせたらそれも全部はけ、今残り1/3があるのみ、それでも結構ある。今は朝食のあと、ストーブの上でギンナンを焼いて食べてる。焼くとおいしく癖になりそうである。正月は落花生でなくこれだと、今は落花生をせっせと食べている。メイドインチャイナだが。
焼くとこんなにおいしいならもっととってこようかななんて思っているが寒くて今は雪に覆われているから取れても一週間か二週間後になるだろう。その時元気ならでの話であるが。