2014年12月5日金曜日

二つの貧しさ

マタイは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(matt: 5: 3)とあり、ルカでは「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。」(luke: 6:20)とある。

今まで二つの貧しさを自分は持っていると思っていた。お金に縁のない貧しさと、そこからくる貧相な心と、「イエス様が幸いだ」と言われているからと負け惜しみのように言っていた。しかしお金はないよりもあった方がいいし、心も豊かでありたいものだと思っている。「貧すれば鈍する」ことも経験し、貧しさのゆえに受ける不条理も経験した。俎板の鯉のように露わにされたこともあった。戦中戦後に生まれ育った人たちは「昔は貧しかった」と過去形で言うがサルは現在進行形であるのがつらい。ありとあらゆる貧しさを経験したと言えば大袈裟かな?そんなの貧しさじゃないという人もいるかもしれない。

ここで聖書の講釈を書くつもりはないし書けないがイエス様が「幸いである」という貧しさをキリスト者はそれを求めているだろうか。勿論自分も含めての話だが。トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」(岩波文庫)の冒頭に「私に従うものは暗(やみ)の中を歩まない、と主はいわれる。このキリストのことばは、もし本当に私たちが光に照らされ、あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯と振舞とにならえと、訓(おし)えるものである。それゆえキリストの生涯にふかく想いをいたすよう、私たちは心をつくして努べきである。」と書いている。

実際そうなのであるが自分が貧しいと思っていたことは、実はこれは「似非貧しさ」であって、真の貧しさではなかったのではと思うようになった。この貧しさを経験されたのはイエス様だけではなかったのではないだろうか。勿論、先人の中にもそれを経験した人もいたであろう。しかし、イエス様の比ではないと思っている。勿論、その人たちを尊敬すべきことではなるが。パウロは「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。」(phil: 4:12)と言っている。
真に貧しいとは豊かを知っている人であろう。イエス様は豊かさを持っていたから貧しくなれた。だから誹謗中傷に耐えることができた。そして十字架にも。

お金の貧しさ、貧相な心、これは真の貧しさではなさそうだ。真の貧しさは下に下にと下って行ける貧しさである。仕える貧しさである。「喧嘩にはめっぽう強く『国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る』と謳われた。」、人に恐れられるのは、どのようなときにも「微笑み返し」をすることである。「できるかなできないだろうな」と松鶴家千とせ氏の言葉をもって閉じる。