2015年1月2日金曜日

新しい年を迎えて

タイトルは格好いいが現実はいたってものぐさである。
大晦日に寝たのがもう日もそして年も変わったのが2時頃だったので必然的に朝は遅い。起きたのが9時半過ぎかな家内はTV を観ながら朝食のお雑煮を用意している。実は我が家は元日が高崎の社会人の駅伝、2日3日は箱根駅伝で新年が始まる。私は社会人はそれほどでもないが箱根はつい観てしまうといっても淡々と走っている中盤はついうとうとしてこたつで寝てしまうことが多い。往路の今日も然りで4区は寝てしまった。走者は真剣であり、苦しいであろうことを思いながらドラマを期待する。今日も山登りで青山学院がトップになり区間新を駒大はアクシデントを起こしてしまった。参加している大学を見ていると移り変わりを見る思いがする。箱根駅伝の純粋なファンではなくまことに不謹慎なファンなのである。一年の計は元旦にありと言われるがもうすでに1年の結果が出てしまった。だからといってメゲテイナイところがいい加減なところである。

年越しの前後を思うときにいつも思い出すのは軽井沢の白糸の滝に行く途中を右折して山道をしばらく行くと峠のようなところがある。その脇に駐車場があってそこから7,8分階段を上がると高台が公園のようになっている。その真ん中辺に長野県と群馬県の境になっている。一歩踏み込めば群馬県、バックすれば長野県、たった一歩で両県を往復することができるしまたいで立つこともできる。鉄人28号(古いがこれしか知らないので)でもできないようなことができる。お前馬鹿かと言われそうだが、言われて否定できないところがつらいところでもある。

12月31日から1月1日と年が変わるのもおんなじだなぁと、段々年末とか年始の行事を行わなくなってしまったから昨日と今日があって明日があるみたいな感じで区切りは普段の一日の区切りにしかすぎなくなった。それがいいのか悪いのかわからないがこれで行くしかない。前にも書いたが仏壇屋の広告塔に「心は形を求め、形は心を求める」というのがあった。人は形ある物や何か記念になるようなものを求める。そういう意味では新しい年を迎えて新しい思いになって何かをしようとするには格好のものであるかもしれない。それはそれで悪くはないがそれほど変化のある生活をしているわけではないのでそこで新しいことをという思いは少ない。あるいはできない。

信仰とは人間の側からの応答であると思っている。それは常に人間の側のアクションが伴ってくる。結果的にそれによって私を測り他人を測る。善意であってもどこか非信仰的になってくるように思う。このところお天気が良いので日が差し、寒いが布団も干したりしている。寒い信州では太陽の恵みを実感できる。だからといって拝まないし、太陽に感謝しないからお天気が悪いと思ったこともない。わたしは不変ではないから絶えず変わっている。それに伴ってお天気も変わるということはない。これと同じように神も然りである。この方は不変な方であるから私がドウコウで変わる方ではない。雲があり、雨が降っていてもその先に太陽があることは誰も疑わないし自分の言動によってこれらが左右されるとも思はない。寒い信州で太陽を渇望するように主を渇望する者でありたい。サタンは罪(諸々の)によって神との断絶を囁くが神は「あなたは、どこにいるのか」と身近におられて尋ねる方である。そしてサタンは罪の故に人が神を恐れて避けるようにと誘導する。そのように思うがこの辺を極めたい。そして、「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」とある。単純に明快にこのような方をこのように告白したいものである。