2015年1月16日金曜日

冷めた目で

イスラム過激派の行動が世界のヒンシュクを買っている。
少女をテロに使うなんてどういう料簡を持って行動しているのだろうかと思う。
イスラムの教えとはどういうものなのだろうと思うが多分その教えからも離れているのだろう。

先進国と言われる国々はそれなりの歴史を踏まえて今日がある。その歴史を振り返れば目を覆うようなことをしてきたのではないだろうか。70年前に原爆を投下したアメリカは日本人を黄色人種としてある種の蔑視があってのこともあったと思っている。僕ら子供の頃の西部劇はインデアンは悪役だった。今そんな映画は作れない。それだけ社会が成熟しているのだろうと思う。それでも白人以外の人たちに対する蔑視の感情は消えていないのことは色々な事件を通して教えている。振り返って単一民族と言われる日本でアイヌに対する差別は厳然と生きている。そこにあるのは貧困と絡んでいるからなお現実が見えないように思う。沖縄然りである。単一なんてどこを見て言っているのか疑問であり、例え単一でもそこにも差別はある。それは一つの結果だから。

カトリック国であるスペインはユダヤ教から改宗してキリスト者となったユダヤ人を残忍な方法でそれも当然のように殺したりしていた。小岸昭氏が「マノーラの系譜」で書いている。イスラム過激派の行動は欧米と時間差の問題で同じことを行っていると思っている。だからゆるされるということではない。そこにあるのは神から離れた人間の罪の問題が深くかかわっているのではないだろうか。

罪は永遠の世界から限りある世界となってしまった。いのちから死がはいってきてしまった。穏やかに死んでも殺されても死は死である。すべての終わり(現実にはそうではないが)でその先はない。生きていても目を覆う悲惨さがある。過激派の行動の非難することはできてもそれをやめる力はない。彼ら自身にもない。それが罪の結果のひとつの姿ではないだろうかと思っている。

神は生の悲惨な現実を解決するために、人々が求めるような形ではなく、神が人となり、イザヤ書53章の姿をとって来られた。キリスト者が救いを語っても歩むことのできない道である。どのような方法でも解決できない死の解決を成してくださった。死が解決するということは神との関係が健全なものになったということでもある。いつか主が来られたら死も悲惨もあらゆる悪は消えていく、この世は時間とか死はなくなる。
job 38: 2
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
私です。