2015年1月23日金曜日

最近、イスラム過激派の行動を見て罪ということを考えている。
彼らの行動は多くの人たちの非難の的である。非難する基準は何だろうかと考えるとそれはヒューマニズムではないだろうかと思う。ヒューマニズムは日本語に訳すれば人道主義、あるいは人文主義と言われ、人間中心主義と見ることもできるだろう。そこには神は存在しない。

ハーベストタイムの中川牧師がイタリアの訪問記を書いていたが寺院を見学してそこにユダヤの息吹が何もないことを書いていた。考えてみればキリスト教はユダヤ教から旧約聖書を受け継いでいる。物事は単独では存在しない。あるいは今あるもの前の何かから受け継いできたものがほとんどである。突然変異で生まれたものはない。あるいはそのような主張する者はそれはまがいものであることは間違いない。カトリックのひとつの過ちはユダヤ教、ユダヤ人から大いなる遺産を受け継いだのにそれを断ち切ったことだ。あるいはプロテスタントも然りかもしれない。なぜならもし彼らがそれを理解していたらユダヤ人迫害なんか起こるはずがない。間違った捉え方をしたからその結果がアウシュビッツにつながったと思っている。神に創造されながら神との縁を切った人間の姿をここでも見ることができる。

イエス様は、
matt: 5:27
『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
matt: 5:28
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
と言われました。このことばをを通して、私は姦淫していないという男性は誰もいないだろう。もしいるとしたらその人は正常な男性ではないと言っていいかもしれない。この聖書のことばは人の目には見えない心の状態を問いかけている。この論法で行けば人は殺人を含めありとあらゆる悪を行っていると言ってもいい。人には表に出たものだけが問題になるが神は人の思う思いを問われる。ある意味でヒューマニズムは表面的なものを問いそして判断する。ある意味で根本的な解決はできない。表面的なものを繕いばいいからである。そしてこの地上の営みはこの不完全なヒューマニズムでしか解決することができない。何故不完全かといえば、
gen: 8:21
人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。
と聖書は言っている。根本がこれであれば結果は明らかである。糖衣錠の薬のようなもので表面は甘くても中は苦い。

rom: 6:23
罪から来る報酬は死です。
地上の諸々の営みの最後は死で終わる。死は罪の結果の姿であると聖書は教える。罪はエセ解決を与えても真の解決は与えてくれない。中東の地も貧困が解決すればイスラム過激派もいつかは収まるだろう。彼ら自身を問う前にこれらの発端は欧米諸国がつくった彼らの搾取が今このような形に現れたと思っている。それらが明らかになる時がいつか来るだろう。その時は罪も解決するときでもある。地上に平和が訪れるために地上に神の主権を確立してほしい。

どこか冷めた目で、いつものパターンで「風が吹けば桶屋が儲かる」式の三段論法になってしまった。