2015年1月24日土曜日

捏造された聖書

正月に息子が置いていった本の題名である。読んでみればタイトルほどのものではない。まず第一に一般の出版社でキリスト教関係の本を出すとなったらタイトルは大袈裟でなければ読者は興味を示さない。キリスト者が興味を示しても数はたかが知れている。それと翻訳者がキリスト者でも聖書に詳しい人でもなさそうで普通の本訳者のようである。だからか預言という言葉ではなく予言という言葉を使っている。訳者が引用した共同訳聖書のことばは現在の新共同訳聖書ではなく以前のものを用いている。訳者が聖書にどの程度関心を持っているかがこの辺で何となくわかる。

訳者あとがきに「ややスキャンダラスで陰謀論的な香りのするものになりましたが、一読された方にはお判りの通り、内容は実に健全かつ学術的で、スタンダードな現代聖書学の成果を解りやすく伝えるものになっています。昨今話題の『ダ・ヴィンチ・コード』などとは一線を画する正統派の著作…」と書いている。著者はバート・D・アーマンという新約聖書の本文批評を専門とする大学の先生である。直訳した題名は「イエスの誤引用―聖書を改変した人々とその理由の背後にある物語」だそうだ。本の中にも出てくるが「改竄された聖書」それも一部ではあるがこの方が適切かも?

著者の生い立ちが書かれていて、南部の保守的な地に育ち、勿論信仰も保守的である。我が信仰の背景と似ているかなぁと思う。高校生になって日本でいうKGKのようなグループに入り活動し、そこで本では「再生」という言葉を使っているが新生を経験する。そして「キリスト教の信仰に身を捧げることを当然と思うようになった。つまり、ムーディ聖書研究所に入って、フルタイムで聖書の研究に励む…。」 ここは禁・酒、タバコ、ダンス、トランプ、映画で暇があれば聖書。生まれ育った諸集会とそう変わらない。入学して誓約されたのが「聖書は無謬なる神のみことばである」。そして「聖書には唯のひとつも誤りはない。一字一句に至るまで完璧に神の霊感によって書かれたものなのである―まさに『言葉による絶対霊感』だ。・・・この観点を前提として教えていた。それ以外の観点は誤りかもしくは『異端』とされた。・・・

「聖書が― 一字一句に至るまで―霊感によって書かれた言葉であるという主張には明らかな問題があった。ムーディのカリキュラムの最初のコースで習うのだが、新約のオリジナルなんてものは、世界のどこにも存在しないのだ。あるのはただこれらの文書の複製だけであって、それも何年も後に―というか、ほとんどの場合、何百年も後に―作られた代物なのである。しかもその上、その複製なるものも完璧に精確であるというわけではない。というのも、それを写した初期たちは時には不注意いよってそして時には意図的に、元のテキストをあちこち改竄しているからだ。ありとあらゆる書記がこれをやっている。つまり、今日の私たちが手にしているのは霊感を受けた言葉の書かれた聖書の原文(すなわちオリジナル)なのではなく、その原文の複製、しかも間違いだらけのやつ、というわけだ。そんなわけで、聖書のオリジナルには何が書いてあったかを査定することこそが死活の急務となる。何といっても、(1)それは霊感によって書かれた素晴しいものであり、しかも(2)その現物は存在しなんだから。」 ここで「本文批評」(原文に改竄を加えた写本を分析し「オリジナル」なことばを再現する学問)を志すようになった。「」は本文引用

確かにヨハネの福音書3節後半から4節は括弧付きではあるが口語訳聖書には書かれているが新改訳聖書と新共同訳聖書には書かれていない。しかし、新改訳では欄外に、新共同訳では各書の最後に異本文が書かれている。それとマルコの福音書の最後も然りである。