2015年1月26日月曜日

捏造された聖書 続き

この本に興味があるわけではないが考えさせられることもある。今手にいしている聖書は完成されたものとして読んでいる。その成立もそれまでの経緯も知らないし知ろうともしなかった。なぜなら完成されているからと。今の聖書が確立したのは四世紀末といわれる。それだけ時間がかかったということだ。新約聖書の書かれた年代を見ると一世紀半ばから二世紀初頭である。それなのに新約聖書27巻となるのに三世紀前後かかったことになる。勿論、その間クリスチャンは内には異端、外には迫害に会い、書簡を維持することは大変なことであっただろう。

使徒の働きを見ると福音が燎原の火のごとく伝わっているのがよくわかる。しかし、パウロ書簡を見ると一変しては大袈裟かな?しかし、律法回帰や異端が既に始まっている。今日のキリスト教会の姿を丸写しのように見える。パウロをはじめ指導者たちの苦労は大変なことであっただろうと想像できる。教会が順調に推移して行ったわけではない。そのようなことを考えるときちんと聖書が整っていたわけではなく、パウロの手紙が回覧されたりしたことであろう。グーテンベルクが印刷機を発明するまでは膨大な写本がなされていたことは自明の理である。そこに一字一句も間違わずということはあり得ない。それにオリジナルが不明なのであれがなおさらであろう。著者も書いているが間違っていてもそれは善意から出ていると確か護教的にあるいは読者にこの方がわかりやすいだろうと書き換えたかもしれない。

イザヤ書は第一(1-39章)、第二(40-55章)、第三(56-66章)に分かれていて、年代も著者も違うと主張している人たちがいる。イザヤを一書と捉えているのは福音的な教会だけかもしれない。著者はいくつかの具体的な個所を示して書かれていたが学者にとって大切なことでも信仰者にとっては些細なことかなと思ったが結論が短絡過ぎるか。今、整えられた書としての聖書を手にしているがそれをどのように理解するかでも個人的な改竄や捏造はあり得る。著者もそのことに触れている。先人たちが命を懸けて守り、そして日本語に翻訳されて無学なサルでも読める。二千年をタイムスリップしてイエス様の言動、パウロの喜びと苦悩を身近に覚えられることは感謝なことであり、今手にしている聖書を「誤りなき神のみことば」として受け取れることこれで充分である。