2015年1月30日金曜日

ショコラ

我が家はお昼の食事時に朝ドラを観る。その後時間があるときはNHKのBSで映画を観ることがある。最近ではオードリー・ヘップバーンが唯一西部劇に出演したという「許されざる者」を観た。バート・ランカスターに西部劇ではおなじみのオーディ・マーフィーとチャールズ・ビックフォードも出演している。この二人は他にも出演しているようだが若い頃は洋画はほとんど西部劇だったからその印象しかない。ヘップバーンといえばヘボン式ローマ字を作ったヘボンさんは正式名がジェームス・カーティス・ヘップバーンでオードリーと同姓である。だから何?と言われても…。

ヘップバーンがインデアンの子どもでありながらランカスターやマーフィーの妹として育つ、そこから物事が発展するが今はあり得ないインデアンが悪役で登場する。仲間である牧場主チャールズ・ビックフォードは息子を彼らに殺されてヘップバーンを彼らに渡すか絶縁するかを責められてヘップバーンをとる。血の繫がらない母親と兄弟が命がけで彼らからヘップバーンを守る。兄であろうインデアンをヘップバーンが殺し、ランカスターと結婚を予表させるシーンもあり、家族愛の絆の強さは分かったが全体にどこか中途半端な感じを受けた。ヘップバーンの唯一の西部劇として観たのに価値があったかな…。

今日観たのは「ショコラ」、どんな映画かなと一応観ていたがつまらなそうなので消そうかなと思いながら他のチャンネルを回しながらそれでも観ていたが途中から興味がわいてきて最後まで観てしまった。内容は面倒なのでウィキペディアから丸写しで失礼・・・。
ある日、フランスのある村に一組の親子(母と娘)が北風とともにやってきた。その親子ヴィアンヌとアヌークは、そのルーツである南米から受け継がれるチョコレートの効能を広めるため世界中を旅していて、この村でも老女アルマンド(糖尿病でそれも病状がだいぶ進んでいる。)から借りた物件でチョコレート店の開店する。
周囲の好奇の目が向けられる中店を開いたヴィアンヌは、一人一人の希望にぴったりと合うチョコレートを差し出し、その不思議なチョコレートの作用から村人達を惹きつけていく。とりわけ、夫の暴力に悩むジョセフィーヌ(後に店を手伝う)や、その奔放な性格のせいで厳格な娘(カロリーヌ、彼女の息子はリュック)から絶縁されているアルマンドにとっては、ヴィアンヌの明るく朗らかな人柄やチョコレートの美味しさと不思議な効果は、ひとときの安らぎとなるのであった。
しかし今は断食の期間。ミサにも参加しようとせず、私生児であるアヌークを連れたヴィアンヌの存在は、敬虔な信仰の体現者で村人にもそれを望む村長のレノ伯爵の反感を買ってしまう。この村は伝統と規律を守る厳格な村なのだ。レノは(若い神父アンリを通して)村人たちに、ヴィアンヌのチョコレート店を悪魔的で堕落したものだと説いて出入りを禁じ、またジョセフィーヌの夫のセルジュを信仰の力で更生させようと躍起になる(しかし成功せず)。
そんなある日、村にジプシーの一団が流れ着く。レノによって村人たちから「流れ者」としてボイコットされる彼らと境遇を同じくするヴィアンヌは、そのリーダーである青年ルーと思いを交わす。そんな様子を知ったレノは、ますますヴィアンヌに対する風当たりを強めていく。
追い込まれたヴィアンヌはアルマンドに悩みを告白。自分の誕生パーティーを一緒に開こうというアルマンドの提案を受け、ヴィアンヌは多くの村人やジプシー達に声をかける(そこでリュックはおばぁちゃんの顔を描いた絵をプレゼントする。少年だが良き理解者)。パーティーの席上でチョコレート料理を振る舞い、さらにはジプシーたちの船上で続きを行うことで村人たちとジプシーたちをある程度繋げさせることに成功し、明るさを取り戻すヴィアンヌであったが、その様子を見ていた村長とセルジュは彼女達に対する反感をより一層募らせていく。以上はウィキペデアより()はサル
この後でジョセフィーヌの夫によって船に火をつけられてジョセフィーヌとアヌークは危うく命を失いそうになり、その夜アルマンドはソファに眠るように静かに息を引き取る。これらのことからヴィアンヌは村を出ようとするがジョセフィーヌに反対され、アヌークにも引き止められる。それでも出かけようとして争っているうちに鞄が開いて衣類とともに中にあった壺が割れて灰(誰かの遺灰か)がこぼれる。アヌークは謝りながらその灰を手ですくう。その様子を見てヴィアンヌは少し諦めかけて下の台所に下りていくとカロリーヌは親しい人たちがジョセフィーヌの指導のもとに復活祭のために嬉々としてチョコレートを作っている。彼女たちを見てヴィアンヌは残ることに。

レノ伯爵はカロリーヌがヴィアンヌの店に出入りしているのを見てショックを受け、夜中に店に侵入して飾り付けられたチョコレートを壊すがそのカケラが口に入り、その美味しさに思わず夢中になってチョコレートを頬張りそこでそのまま寝込んでしまう。朝その様子を見たアンリ神父は驚きながら店に入るとヴィアンヌがレノ伯爵に飲み物を差し出しながらこのことは村の人たちには内緒にしておくことを告げ、伯爵は美味しそうに飲みながらもバツが悪そうに頷き、神父に原稿をまだ書いていないことを告げると神父はにこやかに自分が考えていることを話しますと伝える。今までレノ伯爵チェックされての原稿だったから不本意なところもあったのだろうと思う。翌日、神父は微笑みながら「神の神秘性は奇跡についてではなく人間性について語り、人間の価値は何を受け入れられるかによって決まる」と語った。この言葉は村人に受け入れられ、村が変わる予表を見る。そして村の広場で賑やかに復活祭を祝う。ジョセフィーヌはいなくなった夫セルジュの店を継いで「カフェ・アルマンド」の名前で開く、そしてダーク調の映像がカラフルな映像へと変わっていくのが印象的であった。

この村は、伝統と規律を守る厳格な村で、敬虔な信仰者である村長のレノ伯爵はその体現者であった。そしてそれを村人にも求め、若い神父の原稿とチェックし自分の意向に書き換えさせていた。
映画を観ているうちにホーソンの「緋文字」とダブるようでつい引き込まれるように観てしまった。アメリカ映画だから?ジプシーのリーダーであるルー(ジョニー・ディップ)も帰って来てどこかハッピーエンドだが・・・。

「緋文字」では最後のところは不倫によって生まれたであろう子が母親に抱かれて母親の胸に縫い付けられた紅い「A」(adultry、姦通)の文字をいじる仕草が印象に残る。母親はそれを縫い付けられた服を一生着て生きていかなければならない。その娘が大きくなった時どう思うか。愛のない夫、真実の愛のためにか「A」を縫い付けても生きる強さ、それをしっかり娘にも伝えられるようなそんな感じを与える。真実を告白しなさいと迫りながら自分から告白できない弱さを持った若き牧師、そしてその弱さの故か耐えかねて自ら命を絶つ。「罪」は正義を纏っているようで命が無い。人を生かす力はなく殺す力を諸々のところで発揮する。

人間性をむき出しにしていいのかそれとも抑えるべきか?二面性があるから簡単にjは言えない。
聖書でイエス様もパウロも律法主義者を強く糾弾している。人は律法的になりやすく、それが人をがんじがらめにする。そして守れる人は自己満足するが守れない人を疎外する。これが「罪」のひとつの姿であり、アンリ神父が言うように「何を受け入れられるか」の問いかけにどう答えるかでひとつの結果がわかるのかもしれない。