2015年2月2日月曜日

冷めた目で再び

後藤さんがついに殺されたようだ。淡い期待は泡と消えてしまった。
考えてみればテロ集団が生きて人質を返すなんてことは余程の条件の良さがなければあり得ないだろうなと思う。ニュースを観ながら色々な思いが錯綜する。マスコミは切り貼りのように事件の模様を取り上げている。もっと淡々とできないものかなと思うと同時にセンセーショナルに取り上げることはなんとなく底の浅さを感じてしまう。そして少し経てばそんなことがあったのか思わせるような事件の取り扱いである。

彼らが残虐な行為を見せて自分たちを誇示しようとするのならその残虐さの度合いが強ければ強いほど自らの首を絞めるようで短命になるだろうなと素人考えをしている。それと非日常時と日常時ではことの出来事は単純に推し量れない。ただ非日常時に置かれている一般の人、特に女性や子供たちはかわいそうだ。日本が戦後から平和ボケしているといわれるようなっても東南アジアでは戦争中だった。その東南アジアではポルポトの残虐さはこれらの比ではないのではないだろうか。遡って中国、旧ソ連も然りである。さらに遡ればナチス、そして日本が隣国になした残虐な行為は小さいとは言えない。歴史は常に殺戮の繰り返しであるような気がする。今、平和であってもかつてはというところがほとんどだろう。

平和は簡単に実現するものではない。平和を得るために多くの血が流されなければならない。人間の持つ罪がそれを求めるからである。後藤さんの死を多くの国で悲しみを共有してくださった。嬉しことであり、このうねりは大きい。彼らにとって大きなプレッシャーであろう。もし彼らがこのことを軽く捉えるなら彼らの誤算が始まったと言っていいかもしれない。「あなたがたが力の誇示を残虐さで示すなら、それはあなたがたの終わりの始まりであることを宣告しているようなものです」と言いたい。しかし、利権に群がる死の商人がいるならことは簡単ではないが後藤さんの死を無駄にすることなく、日本は世界のあるいは地域の平和に貢献してほしい。それができるのは唯一の国であるかもしれない。それも脅かされそうだが日本人であることを誇れる日本であってほしい。祈るぞう。
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そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。