2015年1月7日水曜日

三が日余話

二日に帰った息子が弁当箱より小さいインテルNUCなるパソコンを持ってきたがうまく動作せず持ち帰った。出来上がってもどうこなせるか解らないが楽しみでもある。それと「捏造された聖書」なる物騒なタイトルの本を置いていった。これは読み終えたらコメントを書こう。

三日の午後に郵便局に行ったついでに足を延ばして諏訪大社下社秋宮に寄ってみた。人はそれほどでもなく、店も少なく、大勢来てほしいというのではないが少しがっかりした。若いときの明治神宮の人だかりを知っているし務めていた近くの神田明神の人出も知っているから比較するとその比ではない。それでも元日は大勢来ていたらしい。

秋宮に上る坂の手前の交差点にキリスト教の幟を立てているのを見かけて、暮れに秋葉原や新宿などの繁華街に出て幟を立てているのを思い出して思わずどちらか来られたのですかと尋ねたたら下諏訪の教会の方だった。反対側に牧師といっても若い方で子供さんもまだ小さかった。昨年の秋に以前いた集会のH兄姉ファミリーがその教会にお世話になり、お互いに名前だけは知っていたので少し話をする。T兄姉ファミリーの姉妹はその牧師の妹さんと学生時代からの親友とかで何度か尋ねて我が家にも泊まっている。その妹さんも今年出産するとのことで12月末に難産で出産したのにその時は尋ねたいとのことでその元気の良さに驚いている。H兄が名刺をもらってきて会いたいとの伝言を受けていたがこんな形で会うとは、いつかは会わねばと思っていたがこんなに早くこんな形で会うとは不思議なものである。いつかゆっくりと交わりたいものであると思うがその前にどこかノンポリ的な信仰をシャッキとしないと交われないなぁと思った。後期高齢者になろうとするのに新たなチャレンジを受けるようなどこか外堀を埋められるようなそんな複雑な心境にさせられた。

ブローマン式の伝道には多少の違和感があったが田舎にもパンフレットを配ったりしているのを見るにつけ、それに知っている人がやっているのを見ると考え方を少し修正しないといけないかなと思っている。僕らはこのようなことはできませんと言ったら教会によって色々伝道方法がありますからと言われた。まさにそうだなと思う。カトリックの人に言われたことがある。「プロテスタントはなぜたくさんの宗派があるの」と、その時は答えられなかった。しかし、今は「クリスチャンが喜んで集いる場所を提供するために」と言える。正しいかどうかわからないが今集っている教会に集うことが難しい信者が他のところで喜んで集っている姿を見れば正解かなと思っている。そう単純ではないが。