2015年1月8日木曜日

年なのか

暮れに右目の上の部分に何となく違和感があったのが年が明けた途端に朝起きると右目を開けようとすると眩しくてよく目が開けられなかった。それにゴロゴロ感があり、休日の緊急医に眼科はなし、午前中はこんな感じだが午後、そして夜になるとゴロゴロ感はあっても眩しさがなくなる。そんな日が四日も続いて五日目にようやく医院が開いたので行ったら角膜が傷ついているとのことだった。目を開けてと言われてもまぶしいので開けられず先生が瞼を開けて強い光と何やら機械でジージーといじられて一時はどうなるかと心配したがとりあえず痛みが治ったのでホッとする。薬を一時間ごとにと寝る前に軟膏をと、そして麻酔で治療したから切れたら痛み止めを飲むようにと言われて、あれだけやって麻酔が切れたらと思うと不安になった。もらった薬が服用後再度飲むときjは6時間後と但し書きがある。いたって臆病だから6時間経たないうちに痛くなったらどうしょうと余計な心配をしたが薬飲むほどの痛みがなくてホッとする。もしかして我慢強いのではとついいい気になってしまった。人間って現金なものである。俺だけかな?

これから同じようなことが起きるよと言われエッと思ったが先生も細かい説明をしないし、混んでいるので詳しく聞くのも聞いてわかるかどうかも疑問だったので二・三日したらまた来てとのことで薬の処方箋をもらって薬局で薬をもらい点眼している。昨日行ってきたが経過はいいみたいだ。強い光でも眩しさはそれほどでもなく苦痛もなかった。最後にコンタクトを看護士さんが入れてくれるのだが最初のときは目が開けられなくて苦労していたが二回目は簡単にいれられた。気が付かなかったが治療する前からそうだったのか治療した目が片眼で見ると曇りガラスを通して見ているようで少しぼんやりする。気持ちなしか少しづつよくなっているような気がするが完治するのか先生に聞いてみよう。

ひどかった朝に医院に出かけたときは眩しくて左目までも開けておられず事故を起こしそうになった。右手で目を覆い左手でハンドルを握ってようやく医院にたどり着くことができた。あの時のことを思えば少し霞むくらいはどうってことない。若いときから耳鳴りをして難聴気味、年開けてから家内の問いかけに何度も聞き返している。暮れにはに詰めたのがとれ歯医者にも行かないといけない。この歯がどうゆうわけか強く噛めないのである。目、耳、歯と大事なものがおかしくなってきている。丈夫そのものを望むわけではないが目が見え、耳が聞こえ、歯でなんでも噛めるのは当たり前だったが今は恵みだと思わされている。自分が欲することなんかはどうでもいいことなのだなぁと思わされるがそれでもあれがないこれがないとと不平を言っている。駄々っ子みたいである。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。


確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

年を取ってくると色々と失うことが多くなってくる。生活に不便を感じるがヘレンケラーではないが「不便であるが不幸ではない」の言葉を思い出す。本当に大切なものって失ってはじめて知ることができるのかもしれない。自分に力があれば神を必要としない。自分の力できるから感謝してもそれほどのものではないであろう。神を必要とし、神のわざは弱さを通してしか働かないことをパウロは告白している。そのことを喜んでか感謝してか経験できたらと思う。