2015年2月11日水曜日

人とは

ホーソンの「緋文字」に少し触れたがキリスト者としては色々と考えさせられる小説だった。子供が生まれたということで姦通が明らかになったが子供が生まれなかったらどうなるのか、姦通はいけないけれど妻を顧みない夫はどうなのか、そのような婦人に寄り添うようにしていた若い牧師はどうなのか、あるいは人は神の代理者のようになって裁くことは許されるのか、これは人が神の側に立って神のようになることではないのか、あるいはこのことは咽喉につっかえた小骨のように気になってそれを払拭したいためにしている自己満足的なものか、男女の関係は夫婦以外の肉体関係は勿論いけないけれどプラトニックなものでもいけないのか、もしプラトニックな愛が赦されるとしたらなぜかとか…。

一番考えさせられるのは姦淫をした婦人をさらし者にして彼女の側に立つ者がいないということである。ある意味で日本の村八分のようなもので相手に対する配慮がない(二分あるか)。イエス様はそんなことをするだろうかと思う。それとかつてスペインがユダヤ人追放をしたときにユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人たちを異端訊問や迫害したことである。それは熾烈を極めたもののようである。日本のキリシタン迫害の逆を行っているように見える。人はなぜそこまでするのだろうと思うがある意味でイスラム国の残虐さを非難するが地上の目を覆うような出来事は自分の心の中にしっかり生きているのかなと思ったりもしている。だからと言って彼らの行動を肯定するつもりは全然ありません。

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そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。

と聖書にある。イエス様が来られない限り、地上に真の平和は訪れないであろうが形だけでも殺戮は終えてほしいものである。争いから成熟した社会へと願い、そして祈る。