2015年3月9日月曜日

イスラム国 テロリストが国家をつくる時

新聞はとっていないので図書館や役場に行った時に目を通すくらいであるが日曜日だけ買っている。いつも読書欄は読むこともなくサッとめくってしまうのだが何時だったか「イスラム国」が目についたので図書館に置いてあるか確認したらあったので借りてきて読んでいた。読み終えたので「イスラム国」関係はまだあるのかなと検索したら二冊あった。貸し出し中になっていたが予約は誰もしていないので予約をする。それほど興味あるわけではないが色々報道されているが実際はどうなのだろうかと何か新しい流れが起きるのかとイスラエルと絡めて終末の興味もあってである。

この本は最後に池上彰氏が解説を書いていて、著者はローマ生まれの女性でテロについての研究家のようである。著者について書かれている最後に『「イスラム国」については、歴史上初めてテロリストが国家をつくることに成功するかもしれないとして、早くから注目し、発言していた。』と書いている。短く幾つかの章に分けて解り易く書いている。それに用語集なるものもあって幾つか言葉の意味が書かれていた。本を見ながらブラインドタッチの練習を兼ねて書いてみる。

 初めに 「中東の地図を塗り替える」
欧米の多くの専門家は「イスラム国」をタリバンと同じ時代錯誤の組織だと考えている。しかし、それは違う。彼らはグローバル化した多極化した世界を熟知し、大国の限界を驚くほど明確に理解している。

 序章 「『決算報告書』を持つテロ組織」
冷戦下のテロ組織は、PLOにしてもIRAにしても、狭い領域内で正規軍に対して戦いを挑んだ。「イスラム国」の決定的な違いは、群雄割拠する国際情勢の間隙ををついて、広大な地域を支配下において点だ。

 第一章 「誰が『イスラム国』を始めたのか?
「イスラム国」の起源は、ビン・ラディンに反旗を翻したザルカウィに始まる。「遠い敵」アメリカではなくシーア派を攻撃するその路線は、バクダット大学でイスラム神学の学位をとった一人の知識人に受け継がれる。 

 第二章 「中東バトルロワイヤル」
米ソという超大国にいきつく冷戦期の代理戦争と違い、今日の代理戦争は多岐にわたるスポンサー国家が存在する。そうした多頭型代理戦争の間隙をついたのが「イスラム国」だ。いち早く経済的自立を達成し、優位にたった。

 第三章 「イスラエル建国と何が違うのか」
イギリス、フランスの手によって引き裂かれた中東の国境線を消し、新しいカリフ制国家を樹立する。そう唱える「イスラム国」は、ユダヤ人がイスラエルを建国したのと同じ文脈にあるのだろうか?

 第四章 「スーバーテロリストの捏造」
イラクのサダム・フセインとアルカイダをつなげるために、欧米によってザルカウィの神話がでっちあげられた。十年後、後継者のバクダディはソーシャルネットワークの力でカリフ制国家の神話を欧米の若者に信じ込ませる。

 第五章 「建国というジハード」
「イスラム国」は、カリフ制国家の建国という全く新しい概念をジハードに持ち込んだ。それは、アメリカという遠い敵に第二戦線を開いたアルカイダ、腐敗と独裁の中東諸国の権威を一気に色あせさせた。

 第六章 もともとは近代化を目指す思想だった
「イスラム国」がよりどころにしているサラフィ主義は、元々オスマン帝国の後進制から近代化を目指す思想だった。それが欧米の植民地政策によって変質する。「神こそが力の源泉である」

 第七章 「モンゴルに侵略された歴史を利用する」
1258年、バクダットは、モンゴル人とタタール人の連合軍によって徹底的に破壊された。当時連合軍を手引きしたのはシーア派の高官。二十一世紀、欧米と手を組むシーア派というロジックでこの歴史を徹底利用する。

 第八章 「国家たらんとする意思」
グローバル化と貧困化は、世界のあちこちで武装集団が跋扈する無政府状態を生み出した。しかしこれらの武装集団と「イスラム国」を分けるのは、「イスラム国」が明確に国家たらんとする意思を持っていることだ。

 終章 「『アラブの春』の失敗と『イスラム国』の成功」
ツイッターによるイランの「緑の革命」、フェスブックによる「アラブの春」、ユーチューブによる「ウォール街を占拠せよ」そして香港の「雨傘革命」。これら社会変革の試みが必ずしも成功しなかった理由は何か?

目次にこのようなことが書かれて章とその内容を要約している。
イスラム国という国ができたら中東は激変するのだろうか、確たるイスラム国ができたら他のイスラム教の国はどうなるだろうか、王制の国はどうなるだろうか、スンニ派とシーア派との争いは?アメリカや欧米はどうなるだろうか、製造・生産ではなく投機的な形態が横行しているこの世界はこれでいいのだろうかと、そして生きているうちに歴史の変動をこの目で見ることができるだろうかと色々と自分に問いかけている。

聖書を読んでいる者としてアダム以来の罪の問題、バベルの塔やノアの洪水などを通して人間の習性など色々考えさせられている。彼らの行動を是認するわけではないが彼らが特別なものではと思っている。今もそして少し時を振り返ればそれがよくわかる。イスラム教が残忍なのだろうか、キリスト教徒もユダヤ人迫害はナチスだけではなく、ヨーロッパで行われていた。何度も書くがスペインでのユダヤ教から改宗したユダヤ人迫害は「イスラム国」の彼らとそれほど変わらない。むしろ彼らよりひどいかもしれない。磔にして焼き殺している。キリスト教に改宗したのだから喜ぶべきなのに改宗者をマラーノ(豚)と軽蔑している。キリストの愛なんて爪のかけらもない。そんなことを考えていると次の聖書のことばを思い浮かぶ。

rom 3:10-18


それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」


有史以来人間の行動はこういうものではないだろうか。そしてこれからも続くであろう。意地悪ばあさん的結論だがたとえどのようになっても人そのものは変わらない。そして形態は違うかもしれないが出てくる結果は同じであろう。論語読みの論語知らずという言葉があるが聖書読みの聖書知らずにならないように気をつけないとと思っている。