2015年4月11日土曜日

続、トンイ

録画できなかったのでネットで見れないかなとユーチューブで検索したら観れることを知り、録画できないのだけでなく最初から最後まで断片的だか観てしまった。幾つかかあったが皆右と左が逆になっている。だから映像が逆なのだが観るにはさほど不便ではない。しかし、まともに観えるものを見つけそれを最初からしっかりと観ている。どこがそんなにと問われると返事のしようがない。最後の場面で次回の興味をそそられるからだろうか、幼い少女からの生涯を描いている所為だろうか、小説石狩平野の鶴代を思い出す。2,3か所に王の刻印のようなものが出てくる。王の代行のような権威がある。これを見ると水戸黄門の印籠を思い出す。ハッキリした意識もなく、しかし、何かひきつけられるように最初から断片的でなく一時間たっぷりのドラマを観ている。一日一善ではないが精々二本位と思っていたがその何倍も…。今半分観終えた。これからはスローペースで行くつもりである。

最初から見ているとドラマの流れがわかる。60話だから「朝7時に起きて、顔を洗って、食事をして学校に行きました。午後友達と遊び、夕食を7時に食べて、風呂に入って10時に寝ました」的な小学生の日記風なら10話も必要ないだろうがこれだけの回数だと本筋を中心に右に左と伏線が多い。最初から見ているとこの流れが少しわかる。それに邂逅?シーンが多くそれでストーリーがわかるようになっているところも多い。まぁ縦糸に色々な色が横糸に織り込まれて一つの絵になるようにドラマも然りである。

これを観ていて、考えてみれば聖書も然りだなぁと思った。創世記から始まり、黙示録で終わっている。どこかバラバラなようでありながらしっかり神の経綸が織り込まれている。そして創世記の天地創造と黙示録の新天新地は結びつく、出エジプトのイスラエルの民と新約の民の集まりである教会の姿が重なる。宮廷の争いは本質的ではない欲とプライドの争い、その中にトンイは真実と誠実を求めていく、それは人に受け入れられるものではなかった。それはエレミヤが民が安穏に過ごすためにバビロンの捕囚になることを勧めて迫害を受けたこととダブる。それにイエス様の時代のサドカイ人とパリサイ人の姿もダブる。彼らにとって神がとか民がとかのことばはあっても神も民も念頭にはない。自分たちの利益しか求めていないのである。サドカイ人パリサイ人はこれが神のためにと確信を持って言い、行動したことが神に敵対している姿は彼らだけの姿ではない。己の中にもしっかり生きている。主のためにと思ったら人のために生きることが先決かもしれない。