2015年4月25日土曜日

久しぶりに速歩、そして

お天気が悪かったり出かけていたりですっかりご無沙汰していた速歩を夕方久しぶりにやる。ウオーキングではなくランニングシューズにしてから軽くて、それにアスファルトでもクッションが効いて膝に負担がかからない。それと久しぶりなので疲れるかなと思ったらそうでもなくリターンするところまで休まず歩けた。開墾をやって体力がついたのだろうか?どちらにしろラッキーである。少しづつ持久力がついてくるといいのだが…。日曜日に話すというのにこんなことを書いたり、畑に行ったりと肝心のことは後になっている。こういうものは最後に一気にと思っているが既に炬燵に横になってしまって時計は日付が変わって寝る時間になったがもう少し頑張れるかな?

最近思うことは聖書の基本的なことは分かっていても日常生活あるいは集会生活の適応を思うと果たしてこれでいいのかなと思わされることがある。その発想の中にギリシャの二元論とは言わないけれど二元論的発想や罪の性質からくる発想の視点で聖書を理解をしていないだろうかと思うことがある。後藤敏夫氏は終末を生きる神の民( p25)の中で神はイスラエルの民に政治的、社会的、経済的、宗教的からの解放という四重の自由を与えられたと書いている。今までそのことよりもむしろ荒野の旅での民たちの姿に視点があったのではないだろうかと思わされている。これは立派なクリスチャン生活をするか堕落したクリスチャン生活をするかのような視点ではないだろうかと、民はすでに解放され自由になっているのである。大きな救いの中にありながら不平タラタラの民は私とダブる。まさに一万タラント赦されているのに百デナリに拘る自分を見る。愚かなことである。救いを強調するあまり神の大いなる恵みが隠される場合があるのではないだろうか、神のためにとイエス様を十字架にかけた律法学者やパリサイ人は特別なものではない。いつの世にも存在するものである。罪は的を外すといわれる。的を外させる大きな力を見る。低くならなければ見えない真実がある。なれるかな?