2015年5月3日日曜日

レスポンス

聖書を読んでいて年と共に難しいところはなんとなく字面を追うように読んでしまっている。このようなことは若い時からマタイやルカの系図などで実行していたがそれが段々と広がってきた。それとここは途中から名前が違ってくるのでヨセフの系図とマリヤの系図などと聞くと面倒で字面も追わない。いい加減さがこんなところにも出てくる。それでも五Wほどではないが「何故、何で」と思わされることも少なくないが聖書辞典などを読むと更に難しくなるので今は「新エッセンシャル聖書辞典」(いのちのことば社)を愛用している。これは短く纏めているので重宝である。それでも細かく長々と書かれていると最初と最後を読んでジエンドとすることも少なくない。

そんな調子だからまだ聖書はいいとしても聖書だけでなく信仰などになると興味があるのとないのでは極端になったような気がする。集会生活をしているとこれも知らなけれがあれも知らなければと思うことはあったがこちらに来てからは小さな集まりなのでそれもあまり意識しない。キリスト者同士でというよりもクリスチャンでない人にこれをどう説明するかという意識の方が多くなったような気がする。大会などに出席するようなこともなくなり、兄姉との信仰に関する交わりも少なくなってきた。お蔭で聖書にあるいは信仰に関する深みは限りなくゼロに近く、公園の噴水でパンツ一つになってパチャパチャやって楽しんでいる幼児にようで深みには怖くて踏み出せないと変な理由をつけて深みに行かないようにしている。行かないのではなく行けないのか…。

またぞろではないが私は人が右というと左を見る方で右の声が大きければ大きいほどなんのテライもなく左へいく、だから右が間違っている時は胸を張れるがそうでない時は実に悲惨である。
当然ではあるがこの方がはるかに多い。それとトマスに一緒にするなと言われそうであるが疑い深いのはトマス以上である。先輩の信者や責任者が聖書にはこう書いてあるからこうだということを素直に聞かないことが結構あった。


acts:17:11
ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

のようにベレヤのユダヤ人のようならいいのだが単なるへそ曲がりでやっているだけである。それでも福音の伝え方が今一?がつく、聖書が語っている福音は今語られている福音とは違っていないだろうかと思っている。救いを強調するあまりそこだけがピックアップされていて、ある面から見ると聖書が語っている大切なことがスポイルされているようで仕方がない。諸集会に生まれ育った者の受けた傷のようなものであるのかもしれない。勿論、誰かを批判するようなものではなくてではあるが。