2015年4月15日水曜日

新約聖書を終えて

新約聖書を昨年の7月末から一日一章で読み始めて昨日読み終えた。老眼が進んでいるのに聖書通読に字の小さい注解付きの聖書で読んでいた。最初は何とか読めたが目を怪我してからか家内が言うようにパソコンのやりすぎかで字がぼけて読めなくなり、昨年か一昨年かで少し度の強い眼鏡を作っていたのでこれで見るとハッキリと字を読むことができる。それ故途中からこれを使っている。パソコンは従来の眼鏡を使っているが普通の聖書でも新しい眼鏡でないと駄目なことがある。ピンボケのような字がはっきり見えるとドラえもんではないが何でも見える眼鏡でなくとも聖書の意味がはっきりわかる眼鏡があったらなぁと思ったりしている。

以前いた集会では若者たちだろうが一日十章とか二十章を読むグループがいるようである。彼らに伍してなんてサラサラ思わないがのんびりゆっくりと一日一善ではなく一章を読んでいる。ホントのこというとこの年では数節が一番いい、そのうち一日一節にしようかなと思ったりしている。味読という言葉がある。聖書を読むにはこれでないといけないが多々ノルマのようにして読んでしまうことがある。最後の黙示録を読みながらこれからのことであるから4章以降はよくわからない。今読んでいる本を読み終えたら伝道出版社からでている黙示録と今秋長野集会に来られる岡山英雄牧師の黙示録を比較しながら読んでみようかなと思っている。

いつものことながら同じ聖書のことばであるが目につく箇所はいつも違う。それと一章だけを読んでいるとよく言われる「木を見て森を見ない(見えない)。森を見て木を見ない(見えない)。」傾向ってあるなぁと思わされる。今日から旧約を読み始めたが旧約は少しまとめて読むようにしている。それでないといつ読み終えるかわからない。記憶装置が壊れているので幾ら入力してもオフにしたらすべてが消えていくぱソコンのようではあるが読めるうちは読んでいこうと思っている。