2015年4月23日木曜日

原点

去年の九月だったかテレビ東京の「カンブリヤ宮殿」に熱烈中華食堂日高屋の会長神田正さんが出演していた。カンブリヤ宮殿は録画して印象に残ったものは消さないで残してあるがこれもその一つである。ちょっと気になってまた観てみた。元々は大宮にたった五坪のラーメン店から始まめて深夜までやっていたのが当たって店を次々と展開していったようだ。本人は勤め人はダメで何度も転職してラーメン屋のアルバイトの時に出前で現金がもらえたことがこの道に入るきっかけになったらしい。その根底には村一番の貧乏であったと告白していたがそれも機縁しているようでもある。

一部上場のチェーン店を展開している会社の会長の人となりが感動を与える。上場した時、証券取引所にすごい車が並んでいた。「どれで来たの」と聞かれ「地下鉄で来た」と言ったらびっくりされたというより唖然としたのではないだろうか車の「後ろに座っているのは性に合わない」と社用車を持っていない。その分社員の給料に回せばいいと言われていた。収録の時も天王洲に電車に来たと言われて村上龍氏は驚いていた。電車の方が早いですよと何事も無いように話し、そして「電車に乗っていると学生が結構ラーメンの話をしている。それを聞くのが好きで「日高屋らーめんはまずい」とかと笑いながら話されていた。経営理念は昔の駅前の屋台感覚で安くて気軽の寄れる店、そして何回も来ていただくためにさっぱり味にしている。だから駅前の一階に店を展開している。そして吉野家とマックの間にあると良いと言われていた。日替わりでお客さんが来てくれからとのことここにも人間性が見える。一店舗で四千万円を投資する。失敗するとパーになる。失敗した人がかわいそうだからと自分で歩いて決めているようでもある。

それよりも何よりも従業員を大切にすることだ。店を回っていて店長を呼び出し売り上げはどうかと聞くのかと思ったら「ちゃんと休日は取れているか体調はどうか家族は」と従業員の心配りだけ、そして「パートさんの場合で20年努めていて、『ありがとう』も言えずにいなくなる。あれを見て人間として耐えられなくなった。慰労会をやると話ができるし、感謝を表したい」とも言われていた。その慰労会を取材していてパートの方が幾つかのところで働いたがここはパートの人でも大切にしてくれるそのようなことを言われていた。だからこの業界では離職率は30%なのに11%と低い。中華料理は60歳を過ぎると体力的に大変、福利厚生の一環で60-70歳でも働ける職場を作りたいと思っていた。ほとんどの人が60歳を過ぎてやめていく。その時、やりたい人は焼き鳥屋をやれば70歳まで働ける。そういうものを残してあげたい」と焼き鳥屋を始める。それと出店して近所の人に喜ばれるこれも大事な出店の条件のようだ。

「貧乏な家に育った精神のままで一生を終わりたい。ほしいものはない。使い方がわからな。そんなお金があったら従業員に分けた方がいい」とも言われたら村上龍氏は驚いた顔をしていたが貧乏で働くこと一筋で遊ぶ余裕もなかったのだろうなと思った。それと従業員に「この人たちにどんなに感謝したってしきれない」と言われたことに自分ではなく他者が第一の姿を見る。
東京に行った時にお店の看板を見かけたが既に食事をした後だったので今度行ったら是非寄ってみたいなと思った。人は過去がどうあれ功なり名を遂げればそれなりの生活をするものである。そして勝者のような思いがどこかにあるだろうにそれがない。会長の中には村一番の貧乏であったことが原点にあるようだ。そして人から受けた恩を忘れることがないのであろう。このようなものを見ると会長が元気でそしてこのイズムが生きていればこの会社は安泰であろうなと思った。

しかし、つねに原点に立つことは難しいものである。人を踏み台にしても勝者になれば我が功のような成りをする。落ちぶれれば過去の栄光から離れられない。人はそのようなものであることを聖書は教えている。
あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。
エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。
私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。
そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、
この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。
今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。
                                              申命記26:5-9 
彼らの原点はここにある。このように語るということは彼らがエジプトでの生活、出エジプトでの出来事を忘れることを暗示している。どのように栄華を極めたとしても彼らの原点はここにある。それができないからダビデのうちに既に現れ、ソロンモンで決定的になった。後は崖を下り落ちるだけであった。彼らはこのことをたえず思い起こしていればまさに歴史は変わっていただろうにと思う。キリスト者として救いを受け、恵みを頂いているのに
蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ」と言わない。 
よみと、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ」と言わない火。
                                                箴言30:15-16
それに加えて私もである。原点に立つ、あるいは戻るということは至難の業だ。正に主の働きが無ければできないことである。