2015年5月13日水曜日

私的ヤコブ考

老眼と乱視?が進んで読みにくいのだが字の小さな注解付き聖書で創世記から読み始めている。これは簡単な注解が載っているので便利で目が本文と注解を行き来しながら読んでいる。
聖書は読たびに歳なのかその時の信仰状態なのか気づかされる箇所が違うから面白い。創世記を読み終えて、ヤコブのことが創世記の半分を占めていることをあらためて知った。かつては信仰の人ヤコブという観点から見ていたからすべてを肯定的に捉えていたが今回は人間ヤコブという目線で捉えて見ていた。この目線はノンクリ目線と同じかな?落ちた…。



gen 25:27-28
この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

父親としては当然であろうし、それに母親は野人は好かん。こういうかたちで母親に愛されているということと母親にそそのかされて父親を騙すなんて良心のかけらもない上、このような様はマザコンの気があるようで仕方がない。
お腹を空かして野から帰ってきた兄にたかだか煮物一杯をタダで上げないで長子の権利を求めるなんて計算高い人間ではないだろうか。これを信仰的というのか?

エサウを恐れて母親の兄が住んでいるカランに行くにしても母親から勧められての話である。主体性がない。それは結婚してレアとラケルの確執の中にもみられる。しかし、父親から送り出されて行くということは偉いなと思った。ベテルでの夢の出来事を思うと夢ではあるが彼は主の声を聞く耳を持っていた。多分エサウにはそれがなかっただろう。だから聞き従う従わないを別にしても主が語られるということはすごいことなのである。それと祝福を得るまで神と戦う執拗さは、後で記すこととつながりがあるように思う。

カナンの地に帰るとき彼は奴隷の女たちと子供を先頭にして最愛のラケルとヨセフを一番最後にしている。兄イサウを恐れての話だが異常である。彼がいかに臆病であるかがわかる。その臆病がエジプトの地まで行くことができ最愛の息子ヨセフとも再会できたのかもしれない。主体性がなく臆病であれば自分ではなく他に頼る。それが母親であったり、妻たちであり、エサウを前にしての富であった。しかし、最後には神が語りそれに聞き従うということができた。彼が主体性がなく臆病であれば神は語らなかったかもしれない。なぜなら主体性があり臆病でなければ神を必要としない。
案外主体性がなく臆病であることは信仰的には大切なことであるのかもしれない。まだまだ人の目は人間的な目線で神の目線を捉えている。そこからは真の神の目線(みこころ)は分からないだろう。俺はダメだと思うキリスト者よ駄目さを誇ろうではないかちょっと自虐的かな…。