2015年5月13日水曜日

出エジプト記を読みながら

創世記から読み始めて今出エジプト記に入りシナイ山にたどり着いた。ここには懐かしい思い出がある。本は最初から読む物、聖書も然りで旧約、新約とあったがそれほど意識もなく創世記から読み始めた。旧約はレビ記などは読みずらかったから字面を追うように、あるところは物語を見るように読んでいった。そして出エジプトから荒野の旅に入った彼等の姿を見て大いなる奇跡を経験していながらつぶやいている彼らに腹を立てていた。その時はまだハッキリとした信仰は持っていなかったが読み進むうちに自分自身とダブるようになり、振り上げた拳を下せなくなった。ある意味でより聖書が身近に捉えられるようになったきっかけを与えてくれた箇所である。イスラエルの民の不信仰が己の信仰とダブるということは今も続いている。こんなところで接点を持つなんてチョッと哀しい。

しかし、最近捉え方が少し違ってきた。イスラエルの民が忠実に歩めればそれはそれで素晴らしいことである。キリスト者も然りであろう。贖うということを考えると神に前に忠実に歩むか歩まないかはある意味で関係ない。贖うと歩みは応答の関係で別なものである。イスラエルの民は不信仰の故に四十年間荒野をさまよった。しかし、四十年後約束の地に入ることができた。約束の地に入ることと時間的なものは別である。贖い、約束は神の側にあり不変である。それをどのように応えるかはこちらの側の問題。約束の地に四十年後に入らないようにと忠実に歩むキリスト者はあたかも自然体のようにして頑張る。落ちこぼれはそれをしない。否できない。頑張れないのである。しかし、約束の地には入ることができる。贖いってこういうことではないかなと思わされている。駄目でも自然体でいいイスラエルの民が約束の地に入ることができたように贖われた者も新しい地に入ることができる。25章以降は信仰的、霊的意味合いが語られるがもう聞く能力は薄弱になった。でも字面を追って読みます。