2015年5月29日金曜日

私的サウル考

聖書にはアダムに始まって色々な人物が登場する。罪を知らない世界を知っているアダムとエバは別格として、最初の兄弟は兄が弟を殺すという傷つけられたプライドは関係のない弟を殺すという出来事を生みだし、殺された弟は地の中より叫ぶという怨念のすごさは現代の我々の中にも生きている。

初代のイスラエルの王であるサウルと次の王であるダビデはよく比較される。聖書を読んいると信仰的なダビデが賞賛されてサウルは神に退けられたという理由でキリスト者の中にもどこか退かれている思いがある。しかし、人間的に見るとサウルは真面目で浮いた話は出てこない。しかし、晩年は病気?の所為もあるのか自分の息子さい信じないという疑心暗鬼に陥っている。その点ダビデは「英雄色を好む」ではないが空恐ろしいことをやっている。悔い改めたからいいというものでもない。本人のみならずそれらに関係する者に深い傷を負わせた。サウルはその点何も記されていない。神の前に問題有りか人の前に問題有りかの別でこうも違う。

神のことばに「従う」ということは言葉と思いにおいてそれほど難しくはない? しかし、それを実行するとなるとこれは別問題で至難の業である。神がアマレクのすべてを打てと言われたときにサウルはどうでもよいものを滅ぼし、価値のあるものを残した。サウルの気持ちはよくわかる。多分、自分もそうするだろうなと思う。韓国ドラマ「馬医」の中に両班(ヤンバン・貴族?)出身と賤民出身の医官が登場する。既に多くの物を得ている者とゼロ否マイナスから医官の最高位まで上り詰めていく様は生まれた生い立ちが大きな違いを生み出して当たり前であることを教えてくれる。誰でも通る道である。しかし、神はサウルを退けられてダビデを王とした。聖書を読んで受け取る物と現実に直面した時に行動を起こすことの中に乖離があることを思い、サウルの行動を簡単に批判することはできない。良しとするものではないがそこに弱さを認めるか信仰的に断罪するかでその人の信仰と人間性を明らかにするものであろうと思う。イエス様のように捨てるという道を通らないと分からないことでもあるのかもしれない。