2015年6月30日火曜日

罪について

後期高齢者になろうとしている今、性格は別にしても中性脂肪が多いのと血圧が高いくらいは病気のうちに入らないだろう。身近に三叉神経の痛みや膝の痛みで苦労しているのを見るとナイナイづくしの人生であるが健康であることに感謝している。

人は色々な差別を受けて生きている。富み、健康、能力、性格とない物ねだりをするつもりはないが生きるということで弱さを持っている人はつらいだろうなと思うことがある。ちょっとのプレッシャーでつぶれる人がいれば少々のものでも屁とも思わない人もいる。こんな人を見ると羨ましい。こんな人はお金がなくとも能力がなくとも健康でなくともたくましく生きていけるのだろうなと思う。

先週メリカの連邦最高裁所がすべての週で同性婚を認めた。これから日本を含め加速していくだろう。正直、女性同士ならまだしもむくつけの男同士が手をつないだり抱き合っている写真を見ると気持ち悪くなる。現実を目の前にしたら猶のことと思う。

同性は愛せるが異性を愛せない。あるいは身体的性別の違和感を持つ性同一障害の人を見ると自分が好んで選んだわけではないような気がする。単に女っぽい男性、男っぽい女性とは違うだろうなと思う。

聖書をロクに学んでいないものがいうことではあるがこれは罪からくるものではないかと思っている。本人がどうすることもできない問題ではと思っている。ただこれから多くなっていくだろうこれらの人をキリスト教界はどのように対処してくのだろうとそのほうが興味がある。多分、律法学者やパリサイ人と同じ結論を出すだろうなとは思っている。ごく少数彼らを受け入れる教会はあるだろう。しかし異端に近い形で片付けられるかもしれない。

同じことしか書けないがヨハネの福音書五章にベデスダの池での出来事が載っている。いるのは病人だけ、だれも見向きもしない。人々に忘れ去られた存在、否、人々にとっては失くしたい忌まわしいところであろう。しかし、そこにイエス様は下りていった。そして、人生に絶望するに十分な38年間もの間病で苦しんでいる人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。それは新しい人生の一歩を踏み出せということだろう。人は裁くことはできるがイエス様は赦しとどのような人でも活かす力を持っておられる。

実際に直面したら戸惑うかもしれないがこのような人たちにどのように対処するかで信仰の有様が決まるのだろうなと思っている。見える現象ではなくその人の痛みを知り、担うことができたらと思うが我が心には爪の垢ほどのあわれみはないだろうな。