2015年7月28日火曜日

聖書雑感

創世記から読み始めて今サムエル記Ⅰを読み終えた。以前は素直にというか変に納得して読んでいたが今は時折?をつけたり、だからこうなのかなと思ったりして読んでいる。例えば「聖絶」ということばがある。言わんとすることは分かっているがかつてか今もか非キリスト者に対する残虐な行為はこの辺から来ているのではないだろうかと思ったりする。往々にして「神のことば」を自分の手のに引き込んで自らを神の代理者として立ちやすい性質を罪は持っている。パリサイ人がいい例である。本当の意味での聖書の理解はできるのだろうかと思ったりもする。学的理解が深まってもそれが神のみこころかどうかはイコールではないように思う。聖書を読むだけの者だが神が本来伝えようとしていることが本当に理解されているかと思うと疑問に思うことがある。サングラスをかけて物を見れば形は変わらないけど色はサングラスの色によって変色して見える。アダムのように罪のない世界も罪ある世界も知っているならまだしも我々は罪というサングラスをかけて見ている。形は正確に把握することができても色は正確に把握することはできない。また「群盲象をなでる」ではないが一面は正しくともそれがすべてではない。