2015年7月9日木曜日

水に流せる民

千メートルの峠を超えなければ他の土地に行けない所に住んでいるが電波やネットで世界の動きや世の中の動きが伝わってくる。昔だったら隔絶された地である(チョット大袈裟かな、でも南信の遠山郷なんかは正に冬は?と思わせるほどの地である。でもキリスト者としての外との交わりは皆無に近いので当たらずとも遠からずである)。

最近、中学生が自ら命を絶ったニュースは胸が痛む、先生を責めるつもりはないが交換日記のなんてむなしいことか言葉や活字が飛び交っているだけでハートに届かないのが現実では?先生は翌日から体調不良で休んでいるとか先生もつらいだろう。もう先生としてやっていけないのではと心配する。また始めたら複雑だなぁ…。半世紀も前で時代が違うといえばそうなのだが当時もいじめはあったがそれに耐える力もあった。強いわけではないが生きなければならないという思いが強いからそのことを考えて、耐え、そして生きる道を模索した。あの当時、先生に思いっきり殴られたこともあるし柔道での体育の時間にふざけているということで寝技で生きもできないほど首を絞められたこともあった。嫌いな先生と仲がよかったということもあるのかと思ったりもしているがお互い嫌いだったのだろう。そのことでいつか殺してやろうと思っていた。今でも赦していないし水に流すつもりもない。

原発もまた再稼働が始まりそうだ。やめれば設備や投資したものがパァになるから経済的損失を考えると心痛むがそれ以上に子々孫々に残しておくべきものではない。福島が警告の結果なのにと思うと残念でならない。人間の選択はこんなものなのだろう。経済界に媚を売る政治家なんて最低だなぁ。

集団的自衛権なるものも賑やかである。内容をよく知らないのに申し訳ないが議論を聞く気にもならない。議論も鉄砲の打ち合いで相手に向かって打っているのではなく、当たらないように空中に向かって弾を撃ちあっているようなそんな感じを受ける。羽毛のような言葉の軽さよ政治家なら相手の心に響く言葉を発せよと言いたくなる。むなしくてその言葉も出ない。子供や孫に何を残していけばいいのか残ししていけるものを持っているのかそれは「神のことば」だ。よきおとずれを