2015年10月9日金曜日

ホセア書に思う

聖書は字のごとく聖を求めている。しかし、ホセア書はそれに逆行しているように思える。神はホセアに淫行の妻とそれによって生まれた子らを受け入れよといわれる。石打にするのが本来の姿なのにそれそ受け入れなければならないここにホセアの苦悩がある。ホセアの苦悩こそ神の苦悩なのである。聖さを求めるのは正しいがホセアの苦悩を知り、ゴメルやその子らの姿が自分とダブらないと神のみこころを知っても神の苦悩を知ることはできないであろう。神の約束は、
hos 2:14
それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。
hos 2:15
わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。

hos 2:23
わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」